意地悪な力に負けない

意地悪な力に負けない、と言ったのは大江健三郎

勉強はできたかもしれないが、風采はあがらず、不器用そうで、気も弱そうだから、ずいぶんいじめられただろう。

ノーベル作家になってからも、なんのかのと意地の悪いことを書かれていたし。

 

ヨーロッパ在住のひとの話しである。

同じ日本人で、ただヨーロッパに永年いるというだけで、こっちをバカ扱いするのはどうなんだろう。

これが、例えば東南アジア在住とか、インド人妻であるとか、ロシア在住というのなら違うのだ。

ヨーロッパとか北米とか(ブランド)の国となると、日本のひとって、と見下してくる。

あんた何人なのよ?

と言いたくなる。

 

娘とヨーロッパを旅行していたとき、そのひとに連絡してあちらのカフェで会ったことがある。

「オレンジジュース」

と、私が言うと(フラ語で)。

「いまのわからなかったよ」

とウェイターさんが去ったあと、ぼそっと言われた。

私の発音では、なんだかわからないよ、ということである。

恥ずかしかった。

そして、ちゃんとオレンジジュースが出てきたら、今度は腹がたってきた。

美術館に入っても、コンサートへ行っても、まず日本のひとはさあ、こんな絵が良いっていうけど、本当はダメなんだよね、だとか、〇〇という指揮者いるでしょ、あのバカ、と言ったりする。

 

むかついてあるひとに相談したら、ジョークで返せば、と言われた。

ジョークって、どういえば良いの?

せいぜいあてこすりや嫌味を言うくらいしかできない。

そして、言ったあと、言わなきゃよかった、と永く悔やむことになる。

だから、自分を悔やむより、悔しがっているほうがまだましなのだ。

 

梅雨のむしむしする京王線で、いつもなら座れるのに、混んでいて座れなかったとき、ふいに思い出したこと・・。

はやく梅雨があけないかなあ。

訃報

f:id:mazu-jirushii:20170625093552j:image

訃報といっても、芸能人のことではある。

野際陽子さんが亡くなった、とフェイス・ブックで知る。

野際さんが、ベ平連のだれかさん(小中陽太郎氏ではなかったか)と恋愛関係にあったんだったよな、などという古い話しを急に思い出す。

1975年ころか、当時田舎から上京し、東京の大学生であった親戚のお兄さんは野際さんのゴシップにへんに詳しかった。

その後アクション俳優と結婚し、高齢(当時)で出産、その後離婚。

いつまでも美しく、理知的な低い語り口、最近夢中で観ている「やすらぎの郷」というちょっとおもしろいドラマ、

豪華老人ホームに暮らす元芸能関係者たちのひとりとして出演していて、この人の場面になると、ほっとするところがあった。

浅丘ルリ子加賀まりこ有馬稲子八千草薫といったそうそうたる女優さんたちの、華やかでけばけばしく、どうしても一歩前に出ずにはいられない濃厚キャラのなかでしっとり落ち着いていた。

主演の石坂浩二さんは、私が高校の一時期惚れてしまった役者である。

豊臣秀吉(緒方拳)の脇で石田三成を演じた石坂さん以来の当たり役、と「やすらぎ」に拍手したい。

人付き合いが上手そうで、世渡りもうまそうだが、それでいて、スレない部分。

色褪せないセクシーさ。

舞台をやってきたひとは違うなあ。

加賀まりこさんとのゴシップが女性週刊誌を賑わせるたびに、思春期の私は、真面目に落ち込んだものである。

ずっと後になって、加賀まりこ瀬戸内寂聴との対談のなかで、石坂浩二とは、夫婦も同然だった、と話していて、なんだよ、といまさらながらがっかりした。

未婚の母騒動の相手が布施明であることも、そのなかでカムアウトしていた。

 

もう一件の訃報は、数ヶ月前に、ついアメーバブログを開いてしまい、没頭したものの、いかんいかん、と見ないでいた小林麻央さんである。

亡くなったことを知り、も一度アメーバをのぞき、最後の日のブログから、前に戻ってみた。

最初、これは作り物のブログだ、と思った自分がいた。

「前向き」「がんと闘う」というテンプレートが続き、暴力事件をもみ消した歌舞伎界の重鎮の夫君に対する嫌悪もあり、いちいち「?」を付けながら読んでいたのだ。

 

同じ病気に罹った友だちたちは、苛立ち、恨みながら、苦しい治療を続け、それでも大部屋で死ななくてはならないものから見れば、ずいぶん恵まれていたであろう、清潔で明るい緩和ケア病棟で、死んでいった。

だから、こんなふうに、「感謝」とか「前向き」とかいう言葉を並べ、自分の姿を自撮りしてアップすることが、果たしてできるものだろうか、という疑問があった。

だから、嘘だろう、

だれか、この記事で特をするだれかが、本人に成り代わって作っているにちがいない、と。

 

しかし、亡くなってから、もう一度読んで見ると、胸が打たれる。

自分の鏡に映った姿が、恐れていた姿に近づいていて、あわてて子どもたちとの幸せな時間の写真を見た。

昨日は、七転八倒する痛みで苦しんだが、貼り薬で止まった。もっと早く助けを求めればよかった、など。

前日そんなに苦しんで、翌日記事を書く、その意思に驚く。

強靭さに打たれる。

「みなさん」と読者に語りかけることばは、慈愛に満ちている。

 

もし、そんなふうに、感謝と愛で死んでいけるものなら、

苛立ち、怒り、死後の人間関係を壊すような亡くなり方をしたひとたちとの差とは?

どんなふうに生きれば、感謝と愛で死んでいけるものなのだろうか。

呪いではなく。

 

「ママ、ありがとう」

と自分の血を分けた子ではなく、面倒を見てくれた嫁さんを枕元に呼んで最期のことばを言ったお婆さんの話しを思い出す。

 f:id:mazu-jirushii:20170625093535j:image

ロッコと兄弟たち・・若者のすべて

今月から、ツイン・ピークスの最新版をやるというので、WOWOWに加入した。

¥2500も払うのだから、と朝からWOWOWにチャンネルを合わせると、

いつかもテレビで観たことのある「若者のすべて」を放映中。

原題は「ロッコと兄弟たち」というらしい。

この映画はとにかくアラン・ドロンロッコ役)の絶世の美男ぶりを見せつける。

昔観たとき、出演者があまりに若くてきれいなのに驚いた。

この映画のなかで、ずいぶんひどい被害女性を演じるアニー・ジラルドは、高校生のとき友だちと見た、ジャン・ポール・ベルモンドとの共演で、不倫の果て夫と子どもを捨て、最後不倫相手にも捨てられてしまう中年女性の役をしていたが、この女優さんを少しもきれいと思わなかった。

女子高校生に、中年のフランス女優の魅力はむりだったかもしれない。

タダ券を持っていたので誘ってくれた友だちとわたしは、妻の元に逃げてしまうJ・Pと空港で待ちぼうけを食わされ、静か首をふってそっとわらうアニー・ジラルドのラストシーンに気分がわるくなり、なによあれ!とお茶ものまずに家に帰った。

友だちは「脂肪の塊」というモーパッサンの小説にも怒っていたが、そのときと同じ怒った顔であった。

 

この映画は、カソリックの大家族の団結が、故郷の村から大都市ミラノに出てきたことによって、亀裂が入り、機能不全となる有様が描かれている。

ざっくりいえば。

 

アラン・ドロン演じるロッコが、破滅型の次兄、ボクシングで一度はチャンピオンになったものの、その座からあっけなく引きずりおろされようとしている兄と、たまたま通りかかったジムでボクシングを戦い、弟が兄に勝ってしまう、というあってはならない結果から物語が始まる。

ロッコは、兄との確執を避け、自分はボクシングなどしない、と公言するのであるが、生活が立ち行かなくなり、借金が募る次兄の尻拭いのために、とうとうリング上にあがることになる。

ひとたび試合が始まると、あまりの強さに自分でも驚く。

ひとたびグローブをはめると、

「煮えたぎる憎悪でいっぱいになる」

と言う。

そこがおもしろい。

ロッコというひとの隠れた暴力である。

 

とうとう人殺しまでして逃げてきた次兄を老いた母も、兄弟たちも、匿おうとするのだが、4番兄が、警察に通報することにより、次兄は愛人を殺害したかどで逮捕される。

結果、4番兄はファミリーから追放されそうになるのだが。

 

映画の最後は、この4番目兄と少年である末っ子の対話で終わる。

大人になったら、故郷の村に帰りたい、と言う末っ子に、お前なら帰れるさ、と言う。

ロッコと一緒に帰る、と言うと、ロッコは無理だろうな、ロッコは弱いからな、と言う。

暴力と、暴力を隠しおおそうとする力、そして、表面に取り出して裁きを受けさせようとする力が、カソリックの母と五人の息子たちのなかで格闘するのである。

懐かしいミラノ。

1960年公開だから、それより前の時代設定で、まだ第二次世界大戦を引きずっているイタリア。

軍服を着たアラン・ドロンには、まだ老獪なシワはなく、あやしげなところもなく、近づけば切れそうなシャープな美貌である。

f:id:mazu-jirushii:20170625095402j:plain

 

北浦和

昨年、北浦和の老人介護施設に入居した伯母を訪ねるのは2度目。

1度目のとき、彼女が自力で歩けなくなっているのを知って呆然とした。

伯母は94歳である。

自室でさよならを言って、立ち上がってこない。

じゃあここでね、と言うので、え、どうして?

と思わず聞くと、

「だって歩けないのよ」

私はぎょっとした顔をしたのだろう、

「えばることないか」

と伯母が付け加えた。

 

伯母は、若いころは別として、終始金に苦労し、夫を支えて勤めに出て、その勤めも、転々とした。

いつも働いていた。

勤めから帰る母を子どもたちは待ち構えて、伯母は座る間もなく夕飯を作り、犬猫の世話をし、そして自分自身の稽古をやめたことがなかった。

若いころから琴、長唄、詩吟、新内と声を出すのを趣味にしていた。

伯母の料理は、手際よく、美味しかった。

料理をするときは、伯父も、子どもたちも手伝い、私や祖母が招かれると、一緒に手伝わされた。

祖母は、いやな顔をしたものだったが。

 

その伯母が、いま自力で歩けず、自分のたべものを自分で作ることもできない。

ひとは、いつまでも同じでいることはできない。

ほんとうに、そうなのだろうか?

 

伯母は、ホームでのいろいろな活動が楽しそうでもあるが、わずらわしそうでもあり、私たちが行った日は、お昼ご飯も、夕飯も食堂はパスして自室でお菓子やパンで済ます、と言っていた。

 

伯母が大好きだった鰻。

ホームへ着く前に、食べて行った。

伯母には言ってない。

 

f:id:mazu-jirushii:20170605142310j:image

子ども帽子

4月初回のリズムには間に合わなかったが、5月には間に合った子ども帽子。

これをかぶった子どもが「はじまるよリズム」と「さようならリズム」を歌う。

たのしい。

かぶりもののマジックを教えてくれたのは、ノマドSのイケミヤさん。

衣装よりも、大切と言われた。

世田谷パブリックシアターで初めてダンスのワークショップに参加したとき、どうして、ここにこんなおじさんがいるの、と思うような縞模様のポロシャツを着たおじさんと組まされて即興のダンスを踊った。

かれの頭を布でぐるぐる巻いて別人にしたイケミヤさんから、そのとき聞いた。

f:id:mazu-jirushii:20170518180103j:image

f:id:mazu-jirushii:20170518180132j:image