高幡不動

晴れだという予報を信じていたら、前日雨マークに変わっていて、霧のような雨のなかを仕事に出かける。

午前中は雨、午後からは曇りだってよ、とネットで天気予報をチェックしてくれた娘が言う。

午後はどうだっていい、私の仕事は午前で終わる。

朝食は、たいていミルクティーとパン、食パンかバゲットにマーガリンをつけたもの、なのだが、このところ、ときどきパンが食べたくなくなる。

お茶は、紅茶なのだが、この日は、おにぎり。

前の晩に焼いたたらこを入れたおにぎりに、塩と海苔を巻いたもの。

それも三分の一くらい残した。

 

前夜いろいろ考えていたら眠れなくなった。

仕事の前の晩に眠れないとつらい。

私の仕事は子ども相手の、けっこうな肉体労働である。

 

週に一度、二時間以上かけて日野の保育現場へ行く。

始発電車に乗るため、遠回りする。

立ちっぱなしで行くより30分は多くかかるが、そのほうがストレスがない。

 

最近、事情があってルートを変えてみたら、そのほうが快適でしかも時間もやや短いことがわかった。

高幡不動を通過するルートだ。

不動尊の赤門が、モノレールと京王線をつなぐ駅コンコースから見下ろせる。

高幡不動という駅は知らなかった。

聖蹟桜ヶ丘までは、昔同僚のお母さんが亡くなったときに通夜に行ったことがある。

なんと遠いところだ、とそのとき思った。

そういえば、あのころ、どこに住んでいたのだったか。

同僚とは、もう年賀状のやりとりもしていないな、と思う。

お母さんが借金を残して急死して、宗教の力を借りて以来、連絡がくるのは選挙のときだけになっていた。

私が投票しないことぐらい分かっていただろうに。

 

前の晩寝てないし、イヤホンを忘れて音楽を聴くこともできず、うっぷんのあるため息をつきながら二時間の通勤時間を耐える。

元従業員から不正を告発され、訴状が届けられた雇い主に八つ当たりされている姪に、その後どお、とラインを送る。

この子は、どうやら私の人生に刺激を提供する役割を担ってくれているようである。

姪のトラブルが救いですらあるときがある。

車内で、何本かラインを往復させて、

「まあもうしばらく様子を見るよ」とここ数ヶ月続く姪のフレーズでラインが終了する。

 

ザックの死をいちはやく教えてくれた高幡不動

この駅を降りると皮膚がざわざわして、ああザックが死ぬ気でいる、と震えた。

予感の通り、その日の夜おかしくなって、翌朝息を引き取ったのだ。

以来、この高幡不動に不思議な力を感じる。

以来、この高幡不動で耳を澄ます。

 

曇り空のもうもうとした緑。

高幡不動尊に繋がる、山のうっそうとした木々をエスタレーターを見下ろすコンコースの手すりにあごをのっけて眺める。

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声楽事情

 

今朝、昨日のレッスンのテープを聴いて、上手くはないだろうけど、私の声は少し変わってきたような気がする!

前のレッスンの録音と比べてみる気になった。

自分の声よりなにより、前の先生の声、こんなつめたかった?と驚いた。

つめたく聴こえる声は、ソプラノになってもやはり硬質な感じが核にあって

「上手く聴こえない」

私の声は、何度も繰り返し言われたように、「喉で歌ってる」。

コンコーネの苦しそうな声。

 

「上手く聴こえない」とは、私のピアノに対して言われたことばで、上手くないと言ってもらったほうが良いのに、といたく傷ついた。

ほんとうは、なにが言いたかったのだろう。

私を傷つける目的があったわけではないだろうから、って、

もしかすると深層のところで傷つけたいというのがあったのかな?

 

そもそもその先生は、私を他の先生に回したかった。

お断りしようかと思ったんです、とわざわざ言われたとき、止めようかな、と思った。

こんな歌い方なら、歌わないほうがいい、と。

 

歌いずらさはあったが、自分の歌がそこまでとは思っていない。

歌わないほうがいい、とまでは。

 

 

新しい先生は、とにかく明るい。

心から明るい。

その先生の声が聞きたいだけで、行きたいと思う。

元気になれるから。

歌はそうじゃなくっちゃね。

 

前の先生で元気になれるひともいるのだろう。

そして、その先生もそういう生徒なら元気になるのだろう。

 

シューベルトの「音に寄せて」をドイツ語で歌う、ところまでようやく来て止めることになってしまい、しばらく引きずって悶々とした。

新しい先生とは、一からやり直し。

コンコーネも一桁から。

新しい先生になってしばらくは怖れのような感情があって、行ったり行かなかったりだった。

今から思うと、なのだが、ずいぶん疑り深くなっていた。

心底傷ついていたのだ、といまさら気が着く。

 

「それがいまの自分に結びついているのだから、過去もよしとする。」

という立場に私は立たないのだが。

 

以下、2015年2月のブログ・・。

 

声楽の時間、心にどっとわだかまる言葉を投げられて久しぶりに頼りないような、ひとりで立っていられないような気持ちに襲われ、
少し迷ったが、御歳九十三歳の伯母に電話をかける。
実はね、と歌の話をすると

「あらまだ続いているの、えらいわね」と言う。
若い頃から琴をはじめ、長唄、謡、詩吟と続き、最後は新内でくくったひとである。
こういうことを言われた、と言うと、

「そんなことを言う先生はおかしい」と私の味方になってくれる。
携帯を切ったあと、六年続いた歌のレッスンをやめる気になっている。
気持ちの問題でやめたら、この六年の積み重ねがフイになる、という思いもあり、もういっぺんだけやってみよう、と未練たらしく、最後のレッスンに臨んでみた。

翌日声が出なくなっていた。
まったくに枯れてしまって、喉から音声というものが一滴も出ない。
数日経っても治らず、日中は出ても夕方になると枯れてしまい、がらがら声になった。
出ない声で、現場に行った。

あんなに心踊る歌のレッスンがいつからか、終わっても良い気分にならなくなった。
難しいところに来ているということもある。
シューベルトの「音楽に寄せて」をドイツ語で歌う、という夢の途中である。
そこで挫折するのはいかにも悔しい。
でも身体が言うことを聞かないのだから、仕方がない。
自分が変わったのか、先生が変わったのか、終わるとすっきりして晴れ晴れとした気持ちになった声楽が、否定されたようなもやもやが残るようになった。

「音痴のひとだって歌っていて楽しければ音楽なのよ」

と、伯母はずいぶん下のレベルから例を持ってきて姪を励まそうとする。

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ジャコメッティ展

6月に、夫に付き合ってミュシャ展に行き、待ち時間二時間近くと聞いて、速攻退散した私は、むざむざ帰るのもなんだから、と駅構内で売っていたジャコメッティ展の前売りを一枚買って地下鉄に乗った。

そのジャコメッティである。

 

ジャコメッティを知ったのは、石井好子さんのエッセイ。

なんの雑誌だったか忘れたが、石井好子シャンソンを歌っていたパリでジャコメッティと知り合い、彼が魂を込めて作品を作り、満足のいかないものを売ることが悲しいと言ってよく泣いた、という。

「私は、娼婦だ。不完全なものを売って金を稼ぐ娼婦だ。」

と泣いた、という。

彼の作品は金のあるアメリカ人によく売れて、お金はいくらでも入ってきた、そうだが、アトリエとクーポールで食事をとる毎日で、楽しみのために出かけることもなかったそうだ。

せめて百まで生きたい、百まで生きれば、少しはましなものが作れるだろう、と言っていたのに、七十になる前に亡くなってしまった、と書かれてあった。

 

私はクーポールへも行ってみた。

気構えが必要な格式の高いレストランだった。

90年代のクーポールは、よれよれの格好でぼさぼさ頭のジャコメッティが入れるような店ではなく、裕福そうな父親と娘、娘の友人がワインセーラーを囲んで談笑していた。

 

たぐいまれな彫像。

辻潤がいうところの芸術性の異名、独創である。

美しいか、と言われれば美しいのとも違う。

へんな迫力で、地面から垂直に生え出ている。

ニースでは、出会えなかった。

年末年始で美術館が閉まっていたからだ。

しかし、ニューヨークで会えた。

ニューヨークの近代美術館だったか、友達のSが、俳優サム・シェパードを見つけて、だれかを見つけるとよくそうしたように、あ・見ないで、なになにがいるよ、と顔を寄せてうつむき加減でささやかれると、つい振り返ってしまい怒られた。

Sはよく怒る人だった。

 

鹿児島で詩を書いていた友人が、「ジャコメッティにとって見るとはなにか」という記事の載った同人誌を送ってきてくれたことがある。

描こうとして対象を見ているうちにどんどん縮んでいって、小さくなり、ついには点になって消えてしまった、というのだ。

今回の展覧会にも、小さな小さな彫像があって、私はとてもすきだ。

 

静かな声。

ものを創る、ことに捧げた人生。

 

レインコートを頭からかぶったジャコメッティの写真は、ブレッソンがアレジアで撮ったものだ。

この写真が好きだ、と父に見せたら、

どうして?

と不思議そうにした。

そして、レインコートを被った小柄な彫刻家を「俺みたい」と言って笑った。

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意地悪な力に負けない

意地悪な力に負けない、と言ったのは大江健三郎

勉強はできたかもしれないが、風采はあがらず、不器用そうで、気も弱そうだから、ずいぶんいじめられただろう。

ノーベル作家になってからも、なんのかのと意地の悪いことを書かれていたし。

 

ヨーロッパ在住のひとの話しである。

同じ日本人で、ただヨーロッパに永年いるというだけで、こっちをバカ扱いするのはどうなんだろう。

これが、例えば東南アジア在住とか、インド人妻であるとか、ロシア在住というのなら違うのだ。

ヨーロッパとか北米とか(ブランド)の国となると、日本のひとって、と見下してくる。

あんた何人なのよ?

と言いたくなる。

 

娘とヨーロッパを旅行していたとき、そのひとに連絡してあちらのカフェで会ったことがある。

「オレンジジュース」

と、私が言うと(フラ語で)。

「いまのわからなかったよ」

とウェイターさんが去ったあと、ぼそっと言われた。

私の発音では、なんだかわからないよ、ということである。

恥ずかしかった。

そして、ちゃんとオレンジジュースが出てきたら、今度は腹がたってきた。

美術館に入っても、コンサートへ行っても、まず日本のひとはさあ、こんな絵が良いっていうけど、本当はダメなんだよね、だとか、〇〇という指揮者いるでしょ、あのバカ、と言ったりする。

 

むかついてあるひとに相談したら、ジョークで返せば、と言われた。

ジョークって、どういえば良いの?

せいぜいあてこすりや嫌味を言うくらいしかできない。

そして、言ったあと、言わなきゃよかった、と永く悔やむことになる。

だから、自分を悔やむより、悔しがっているほうがまだましなのだ。

 

梅雨のむしむしする京王線で、いつもなら座れるのに、混んでいて座れなかったとき、ふいに思い出したこと・・。

はやく梅雨があけないかなあ。

訃報

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訃報といっても、芸能人のことではある。

野際陽子さんが亡くなった、とフェイス・ブックで知る。

野際さんが、ベ平連のだれかさん(小中陽太郎氏ではなかったか)と恋愛関係にあったんだったよな、などという古い話しを急に思い出す。

1975年ころか、当時田舎から上京し、東京の大学生であった親戚のお兄さんは野際さんのゴシップにへんに詳しかった。

その後アクション俳優と結婚し、高齢(当時)で出産、その後離婚。

いつまでも美しく、理知的な低い語り口、最近夢中で観ている「やすらぎの郷」というちょっとおもしろいドラマ、

豪華老人ホームに暮らす元芸能関係者たちのひとりとして出演していて、この人の場面になると、ほっとするところがあった。

浅丘ルリ子加賀まりこ有馬稲子八千草薫といったそうそうたる女優さんたちの、華やかでけばけばしく、どうしても一歩前に出ずにはいられない濃厚キャラのなかでしっとり落ち着いていた。

主演の石坂浩二さんは、私が高校の一時期惚れてしまった役者である。

豊臣秀吉(緒方拳)の脇で石田三成を演じた石坂さん以来の当たり役、と「やすらぎ」に拍手したい。

人付き合いが上手そうで、世渡りもうまそうだが、それでいて、スレない部分。

色褪せないセクシーさ。

舞台をやってきたひとは違うなあ。

加賀まりこさんとのゴシップが女性週刊誌を賑わせるたびに、思春期の私は、真面目に落ち込んだものである。

ずっと後になって、加賀まりこ瀬戸内寂聴との対談のなかで、石坂浩二とは、夫婦も同然だった、と話していて、なんだよ、といまさらながらがっかりした。

未婚の母騒動の相手が布施明であることも、そのなかでカムアウトしていた。

 

もう一件の訃報は、数ヶ月前に、ついアメーバブログを開いてしまい、没頭したものの、いかんいかん、と見ないでいた小林麻央さんである。

亡くなったことを知り、も一度アメーバをのぞき、最後の日のブログから、前に戻ってみた。

最初、これは作り物のブログだ、と思った自分がいた。

「前向き」「がんと闘う」というテンプレートが続き、暴力事件をもみ消した歌舞伎界の重鎮の夫君に対する嫌悪もあり、いちいち「?」を付けながら読んでいたのだ。

 

同じ病気に罹った友だちたちは、苛立ち、恨みながら、苦しい治療を続け、それでも大部屋で死ななくてはならないものから見れば、ずいぶん恵まれていたであろう、清潔で明るい緩和ケア病棟で、死んでいった。

だから、こんなふうに、「感謝」とか「前向き」とかいう言葉を並べ、自分の姿を自撮りしてアップすることが、果たしてできるものだろうか、という疑問があった。

だから、嘘だろう、

だれか、この記事で特をするだれかが、本人に成り代わって作っているにちがいない、と。

 

しかし、亡くなってから、もう一度読んで見ると、胸が打たれる。

自分の鏡に映った姿が、恐れていた姿に近づいていて、あわてて子どもたちとの幸せな時間の写真を見た。

昨日は、七転八倒する痛みで苦しんだが、貼り薬で止まった。もっと早く助けを求めればよかった、など。

前日そんなに苦しんで、翌日記事を書く、その意思に驚く。

強靭さに打たれる。

「みなさん」と読者に語りかけることばは、慈愛に満ちている。

 

もし、そんなふうに、感謝と愛で死んでいけるものなら、

苛立ち、怒り、死後の人間関係を壊すような亡くなり方をしたひとたちとの差とは?

どんなふうに生きれば、感謝と愛で死んでいけるものなのだろうか。

呪いではなく。

 

「ママ、ありがとう」

と自分の血を分けた子ではなく、面倒を見てくれた嫁さんを枕元に呼んで最期のことばを言ったお婆さんの話しを思い出す。

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ロッコと兄弟たち・・若者のすべて

今月から、ツイン・ピークスの最新版をやるというので、WOWOWに加入した。

¥2500も払うのだから、と朝からWOWOWにチャンネルを合わせると、

いつかもテレビで観たことのある「若者のすべて」を放映中。

原題は「ロッコと兄弟たち」というらしい。

この映画はとにかくアラン・ドロンロッコ役)の絶世の美男ぶりを見せつける。

昔観たとき、出演者があまりに若くてきれいなのに驚いた。

この映画のなかで、ずいぶんひどい被害女性を演じるアニー・ジラルドは、高校生のとき友だちと見た、ジャン・ポール・ベルモンドとの共演で、不倫の果て夫と子どもを捨て、最後不倫相手にも捨てられてしまう中年女性の役をしていたが、この女優さんを少しもきれいと思わなかった。

女子高校生に、中年のフランス女優の魅力はむりだったかもしれない。

タダ券を持っていたので誘ってくれた友だちとわたしは、妻の元に逃げてしまうJ・Pと空港で待ちぼうけを食わされ、静か首をふってそっとわらうアニー・ジラルドのラストシーンに気分がわるくなり、なによあれ!とお茶ものまずに家に帰った。

友だちは「脂肪の塊」というモーパッサンの小説にも怒っていたが、そのときと同じ怒った顔であった。

 

この映画は、カソリックの大家族の団結が、故郷の村から大都市ミラノに出てきたことによって、亀裂が入り、機能不全となる有様が描かれている。

ざっくりいえば。

 

アラン・ドロン演じるロッコが、破滅型の次兄、ボクシングで一度はチャンピオンになったものの、その座からあっけなく引きずりおろされようとしている兄と、たまたま通りかかったジムでボクシングを戦い、弟が兄に勝ってしまう、というあってはならない結果から物語が始まる。

ロッコは、兄との確執を避け、自分はボクシングなどしない、と公言するのであるが、生活が立ち行かなくなり、借金が募る次兄の尻拭いのために、とうとうリング上にあがることになる。

ひとたび試合が始まると、あまりの強さに自分でも驚く。

ひとたびグローブをはめると、

「煮えたぎる憎悪でいっぱいになる」

と言う。

そこがおもしろい。

ロッコというひとの隠れた暴力である。

 

とうとう人殺しまでして逃げてきた次兄を老いた母も、兄弟たちも、匿おうとするのだが、4番兄が、警察に通報することにより、次兄は愛人を殺害したかどで逮捕される。

結果、4番兄はファミリーから追放されそうになるのだが。

 

映画の最後は、この4番目兄と少年である末っ子の対話で終わる。

大人になったら、故郷の村に帰りたい、と言う末っ子に、お前なら帰れるさ、と言う。

ロッコと一緒に帰る、と言うと、ロッコは無理だろうな、ロッコは弱いからな、と言う。

暴力と、暴力を隠しおおそうとする力、そして、表面に取り出して裁きを受けさせようとする力が、カソリックの母と五人の息子たちのなかで格闘するのである。

懐かしいミラノ。

1960年公開だから、それより前の時代設定で、まだ第二次世界大戦を引きずっているイタリア。

軍服を着たアラン・ドロンには、まだ老獪なシワはなく、あやしげなところもなく、近づけば切れそうなシャープな美貌である。

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北浦和

昨年、北浦和の老人介護施設に入居した伯母を訪ねるのは2度目。

1度目のとき、彼女が自力で歩けなくなっているのを知って呆然とした。

伯母は94歳である。

自室でさよならを言って、立ち上がってこない。

じゃあここでね、と言うので、え、どうして?

と思わず聞くと、

「だって歩けないのよ」

私はぎょっとした顔をしたのだろう、

「えばることないか」

と伯母が付け加えた。

 

伯母は、若いころは別として、終始金に苦労し、夫を支えて勤めに出て、その勤めも、転々とした。

いつも働いていた。

勤めから帰る母を子どもたちは待ち構えて、伯母は座る間もなく夕飯を作り、犬猫の世話をし、そして自分自身の稽古をやめたことがなかった。

若いころから琴、長唄、詩吟、新内と声を出すのを趣味にしていた。

伯母の料理は、手際よく、美味しかった。

料理をするときは、伯父も、子どもたちも手伝い、私や祖母が招かれると、一緒に手伝わされた。

祖母は、いやな顔をしたものだったが。

 

その伯母が、いま自力で歩けず、自分のたべものを自分で作ることもできない。

ひとは、いつまでも同じでいることはできない。

ほんとうに、そうなのだろうか?

 

伯母は、ホームでのいろいろな活動が楽しそうでもあるが、わずらわしそうでもあり、私たちが行った日は、お昼ご飯も、夕飯も食堂はパスして自室でお菓子やパンで済ます、と言っていた。

 

伯母が大好きだった鰻。

ホームへ着く前に、食べて行った。

伯母には言ってない。

 

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