逆転位とか

北浦和の老人ホームに入居する伯母を訪ねたのは、最初のぎくっをやる5日前。

このひととのあいだにときどき起こるのだが、往復の長い道のり、午後からは嵐の予報の日に、プレゼントを持って出かけ、行くんじゃなかった、と悔やむ。

私のことだから、まあいやなことはさっさと忘れて前向きに、とはならない。

じくじくじくじく気持ちを病む。

そして、いやな気持ちを解明しようと努める。

そんなことも、この腰に影響しているのだろう。

「なにかストレスありましたか?」

と野口の先生に言われるが、なんとも説明しづらい。

私の歪んだバイヤスのせい?、伯母のなんということはないひとことひとことが胸にささる?

 

あるいは、もう歩けなくなった伯母が、いいよ、と言うのに、

いざったり、腕の力で必死に身体を持ち上げて、あまり甘くないぶどうを冷蔵庫から出してくれたり、冷茶を作ってくれたり、浄水器を通してない水で作った消毒臭いお茶を、おいしい、と言わなくてはならなかったり。

 

自分が歩けないとき、這ったり、いざったりしていると、肉の削ぎ落ちた伯母の小さくなった身体を思い出して、これは転位かもしれない、と思ったりする。

面倒を見ていた長女がついにねをあげて、老人ホームへ入居することになった伯母は、上機嫌というわけではない。

さかんに長女のこと、次女のことを私に話す彼女のこころの奥はわからない。

まるで、伯父と死に別れたあと、しばらくひとりで暮らしていたころのような、切迫感がある。

ひとりでいることは、なんと無防備で、心細いことなのだろう。

ホームというところもなかなか孤独な所のようである。

 

お盆事情 2017年

生まれて初めてのことだ。

ベッドの上に身体を起こすことができない。

起き上がろうとして、起き上がれない。

ん?

ど・どうしようと汗が吹き出る。

起き上がれなければ、そのまま寝ていればいい、という選択肢はない。

怖いのだ。

うつ伏せになったまま、そろそろと足から下ろし、そのまま床に座ろうとして座れない!

身体を起こせない、とりあえず腕の力だけで上体を支える。

 

そんな事態が、お盆の休み中続き、家族の休みは、私の介護でつぶれた。

 

先月末に、最初の異変があり、ゴッドハンドの元へ車で運ばれたときは、名前を呼ばれても四つ這いにならないと先生の前まで行くことができなかった。

そして、翌日の仕事、なんとかなるだろう、と外へ出たが、歩けない。

そのとき、全身の力を使って、身体を無理やり動かして、30分以上の道のりを強引に、へんな格好をしながら、ときにはだれかの家の壁に手をついて、歩いてしまった。

タクシーは通ってないし、ドタキャンすることは憚られる。

今から思えばどんなに顰蹙でも、ドタキャンをするべきだった。

 

その後、順調に回復しているように思えたが、どんと気温の下がった日の朝、もう一度ぐきっとやってしまった。

なんでも、2度目は大変である。

なんやかやで、3週間、頭を下にして身体を曲げることができないため、風呂の栓をして水を張る、洗濯槽から洗いあがった洗濯物を取り上げるなど、はむり。

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夫所有のアンドレ・マッソンのリトグラフ

具合の悪いときには、この絵を見ながら横になっている。

 

 

 

アンダンテ

鍵盤は、毎日少しづつ、少しづつ練習をしていけば、そのうち弾けるようになる。

今日、初めてD♭(♭が5つ!!)のアンダンテを通して弾くことができた。

やっと、くりかえし、くりかえし同じ箇所を、何度も何度も弾くことによって、全体が見通せる。

あるパターンがみえてくると、へんな違和感のある、とらえ難い音の意味が理解できる。

流れのなかで、そのへんな協和性の感じられなかった音が、なぜそこにあるのかわかるようになる。

その音が、ぜったいそこにないといけない意味が流れから理解できると、押さえにくい音がむしろすきになる。

 

シューベルトに感謝。

シューベルトがつらい人生のなかで作曲を続けてくれた勇気に感謝。

 

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高幡不動

晴れだという予報を信じていたら、前日雨マークに変わっていて、霧のような雨のなかを仕事に出かける。

午前中は雨、午後からは曇りだってよ、とネットで天気予報をチェックしてくれた娘が言う。

午後はどうだっていい、私の仕事は午前で終わる。

朝食は、たいていミルクティーとパン、食パンかバゲットにマーガリンをつけたもの、なのだが、このところ、ときどきパンが食べたくなくなる。

お茶は、紅茶なのだが、この日は、おにぎり。

前の晩に焼いたたらこを入れたおにぎりに、塩と海苔を巻いたもの。

それも三分の一くらい残した。

 

前夜いろいろ考えていたら眠れなくなった。

仕事の前の晩に眠れないとつらい。

私の仕事は子ども相手の、けっこうな肉体労働である。

 

週に一度、二時間以上かけて日野の保育現場へ行く。

始発電車に乗るため、遠回りする。

立ちっぱなしで行くより30分は多くかかるが、そのほうがストレスがない。

 

最近、事情があってルートを変えてみたら、そのほうが快適でしかも時間もやや短いことがわかった。

高幡不動を通過するルートだ。

不動尊の赤門が、モノレールと京王線をつなぐ駅コンコースから見下ろせる。

高幡不動という駅は知らなかった。

聖蹟桜ヶ丘までは、昔同僚のお母さんが亡くなったときに通夜に行ったことがある。

なんと遠いところだ、とそのとき思った。

そういえば、あのころ、どこに住んでいたのだったか。

同僚とは、もう年賀状のやりとりもしていないな、と思う。

お母さんが借金を残して急死して、宗教の力を借りて以来、連絡がくるのは選挙のときだけになっていた。

私が投票しないことぐらい分かっていただろうに。

 

前の晩寝てないし、イヤホンを忘れて音楽を聴くこともできず、うっぷんのあるため息をつきながら二時間の通勤時間を耐える。

元従業員から不正を告発され、訴状が届けられた雇い主に八つ当たりされている姪に、その後どお、とラインを送る。

この子は、どうやら私の人生に刺激を提供する役割を担ってくれているようである。

姪のトラブルが救いですらあるときがある。

車内で、何本かラインを往復させて、

「まあもうしばらく様子を見るよ」とここ数ヶ月続く姪のフレーズでラインが終了する。

 

ザックの死をいちはやく教えてくれた高幡不動

この駅を降りると皮膚がざわざわして、ああザックが死ぬ気でいる、と震えた。

予感の通り、その日の夜おかしくなって、翌朝息を引き取ったのだ。

以来、この高幡不動に不思議な力を感じる。

以来、この高幡不動で耳を澄ます。

 

曇り空のもうもうとした緑。

高幡不動尊に繋がる、山のうっそうとした木々をエスタレーターを見下ろすコンコースの手すりにあごをのっけて眺める。

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声楽事情

 

今朝、昨日のレッスンのテープを聴いて、上手くはないだろうけど、私の声は少し変わってきたような気がする!

前のレッスンの録音と比べてみる気になった。

自分の声よりなにより、前の先生の声、こんなつめたかった?と驚いた。

つめたく聴こえる声は、ソプラノになってもやはり硬質な感じが核にあって

「上手く聴こえない」

私の声は、何度も繰り返し言われたように、「喉で歌ってる」。

コンコーネの苦しそうな声。

 

「上手く聴こえない」とは、私のピアノに対して言われたことばで、上手くないと言ってもらったほうが良いのに、といたく傷ついた。

ほんとうは、なにが言いたかったのだろう。

私を傷つける目的があったわけではないだろうから、って、

もしかすると深層のところで傷つけたいというのがあったのかな?

 

そもそもその先生は、私を他の先生に回したかった。

お断りしようかと思ったんです、とわざわざ言われたとき、止めようかな、と思った。

こんな歌い方なら、歌わないほうがいい、と。

 

歌いずらさはあったが、自分の歌がそこまでとは思っていない。

歌わないほうがいい、とまでは。

 

 

新しい先生は、とにかく明るい。

心から明るい。

その先生の声が聞きたいだけで、行きたいと思う。

元気になれるから。

歌はそうじゃなくっちゃね。

 

前の先生で元気になれるひともいるのだろう。

そして、その先生もそういう生徒なら元気になるのだろう。

 

シューベルトの「音に寄せて」をドイツ語で歌う、ところまでようやく来て止めることになってしまい、しばらく引きずって悶々とした。

新しい先生とは、一からやり直し。

コンコーネも一桁から。

新しい先生になってしばらくは怖れのような感情があって、行ったり行かなかったりだった。

今から思うと、なのだが、ずいぶん疑り深くなっていた。

心底傷ついていたのだ、といまさら気が着く。

 

「それがいまの自分に結びついているのだから、過去もよしとする。」

という立場に私は立たないのだが。

 

以下、2015年2月のブログ・・。

 

声楽の時間、心にどっとわだかまる言葉を投げられて久しぶりに頼りないような、ひとりで立っていられないような気持ちに襲われ、
少し迷ったが、御歳九十三歳の伯母に電話をかける。
実はね、と歌の話をすると

「あらまだ続いているの、えらいわね」と言う。
若い頃から琴をはじめ、長唄、謡、詩吟と続き、最後は新内でくくったひとである。
こういうことを言われた、と言うと、

「そんなことを言う先生はおかしい」と私の味方になってくれる。
携帯を切ったあと、六年続いた歌のレッスンをやめる気になっている。
気持ちの問題でやめたら、この六年の積み重ねがフイになる、という思いもあり、もういっぺんだけやってみよう、と未練たらしく、最後のレッスンに臨んでみた。

翌日声が出なくなっていた。
まったくに枯れてしまって、喉から音声というものが一滴も出ない。
数日経っても治らず、日中は出ても夕方になると枯れてしまい、がらがら声になった。
出ない声で、現場に行った。

あんなに心踊る歌のレッスンがいつからか、終わっても良い気分にならなくなった。
難しいところに来ているということもある。
シューベルトの「音楽に寄せて」をドイツ語で歌う、という夢の途中である。
そこで挫折するのはいかにも悔しい。
でも身体が言うことを聞かないのだから、仕方がない。
自分が変わったのか、先生が変わったのか、終わるとすっきりして晴れ晴れとした気持ちになった声楽が、否定されたようなもやもやが残るようになった。

「音痴のひとだって歌っていて楽しければ音楽なのよ」

と、伯母はずいぶん下のレベルから例を持ってきて姪を励まそうとする。

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ジャコメッティ展

6月に、夫に付き合ってミュシャ展に行き、待ち時間二時間近くと聞いて、速攻退散した私は、むざむざ帰るのもなんだから、と駅構内で売っていたジャコメッティ展の前売りを一枚買って地下鉄に乗った。

そのジャコメッティである。

 

ジャコメッティを知ったのは、石井好子さんのエッセイ。

なんの雑誌だったか忘れたが、石井好子シャンソンを歌っていたパリでジャコメッティと知り合い、彼が魂を込めて作品を作り、満足のいかないものを売ることが悲しいと言ってよく泣いた、という。

「私は、娼婦だ。不完全なものを売って金を稼ぐ娼婦だ。」

と泣いた、という。

彼の作品は金のあるアメリカ人によく売れて、お金はいくらでも入ってきた、そうだが、アトリエとクーポールで食事をとる毎日で、楽しみのために出かけることもなかったそうだ。

せめて百まで生きたい、百まで生きれば、少しはましなものが作れるだろう、と言っていたのに、七十になる前に亡くなってしまった、と書かれてあった。

 

私はクーポールへも行ってみた。

気構えが必要な格式の高いレストランだった。

90年代のクーポールは、よれよれの格好でぼさぼさ頭のジャコメッティが入れるような店ではなく、裕福そうな父親と娘、娘の友人がワインセーラーを囲んで談笑していた。

 

たぐいまれな彫像。

辻潤がいうところの芸術性の異名、独創である。

美しいか、と言われれば美しいのとも違う。

へんな迫力で、地面から垂直に生え出ている。

ニースでは、出会えなかった。

年末年始で美術館が閉まっていたからだ。

しかし、ニューヨークで会えた。

ニューヨークの近代美術館だったか、友達のSが、俳優サム・シェパードを見つけて、だれかを見つけるとよくそうしたように、あ・見ないで、なになにがいるよ、と顔を寄せてうつむき加減でささやかれると、つい振り返ってしまい怒られた。

Sはよく怒る人だった。

 

鹿児島で詩を書いていた友人が、「ジャコメッティにとって見るとはなにか」という記事の載った同人誌を送ってきてくれたことがある。

描こうとして対象を見ているうちにどんどん縮んでいって、小さくなり、ついには点になって消えてしまった、というのだ。

今回の展覧会にも、小さな小さな彫像があって、私はとてもすきだ。

 

静かな声。

ものを創る、ことに捧げた人生。

 

レインコートを頭からかぶったジャコメッティの写真は、ブレッソンがアレジアで撮ったものだ。

この写真が好きだ、と父に見せたら、

どうして?

と不思議そうにした。

そして、レインコートを被った小柄な彫刻家を「俺みたい」と言って笑った。

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意地悪な力に負けない

意地悪な力に負けない、と言ったのは大江健三郎

勉強はできたかもしれないが、風采はあがらず、不器用そうで、気も弱そうだから、ずいぶんいじめられただろう。

ノーベル作家になってからも、なんのかのと意地の悪いことを書かれていたし。

 

ヨーロッパ在住のひとの話しである。

同じ日本人で、ただヨーロッパに永年いるというだけで、こっちをバカ扱いするのはどうなんだろう。

これが、例えば東南アジア在住とか、インド人妻であるとか、ロシア在住というのなら違うのだ。

ヨーロッパとか北米とか(ブランド)の国となると、日本のひとって、と見下してくる。

あんた何人なのよ?

と言いたくなる。

 

娘とヨーロッパを旅行していたとき、そのひとに連絡してあちらのカフェで会ったことがある。

「オレンジジュース」

と、私が言うと(フラ語で)。

「いまのわからなかったよ」

とウェイターさんが去ったあと、ぼそっと言われた。

私の発音では、なんだかわからないよ、ということである。

恥ずかしかった。

そして、ちゃんとオレンジジュースが出てきたら、今度は腹がたってきた。

美術館に入っても、コンサートへ行っても、まず日本のひとはさあ、こんな絵が良いっていうけど、本当はダメなんだよね、だとか、〇〇という指揮者いるでしょ、あのバカ、と言ったりする。

 

むかついてあるひとに相談したら、ジョークで返せば、と言われた。

ジョークって、どういえば良いの?

せいぜいあてこすりや嫌味を言うくらいしかできない。

そして、言ったあと、言わなきゃよかった、と永く悔やむことになる。

だから、自分を悔やむより、悔しがっているほうがまだましなのだ。

 

梅雨のむしむしする京王線で、いつもなら座れるのに、混んでいて座れなかったとき、ふいに思い出したこと・・。

はやく梅雨があけないかなあ。