通勤事情 2017年11月

川崎と立川を結ぶ通勤時の南武線は、始まりから終点までほぼびっしり混んでいる。

スタジアムジャンパーを着て、よれた花柄のリュックを背負い、ドタドタ乗り込んできた女性。

年格好は、私と同じくらいか。

両手に荷物の入ったレジ袋を持っている。

はあはあと荒い息をして、ばたばたと乱暴に乗り込んでくると、どこも席が空いてないのを見回して、倒れるようにごほんごほん咳をする。

リュックは床に置き、その上にレジ袋を置いて、なおもきょろきよろしながらつり革につかまっている。

私からは後ろ姿しか見えないのだが、目が離せない。

平然と前に座る五十代くらいのサラリーマン男性は、すずしい顔でスマートフォンに指を這わせ、その脇に座る、私と、そしてスタイジアムジャンパーの女性と同じくらいの年齢の女性は、なにも感じていないようである。

女性が露骨に座りたいアピールをしても、だれも助けてあげない。

私だって困る。

終点まで行くために、遠回りして始発に乗り込んでいるのだ。

 

すずしい顔の男性は、静かにスマートフォンに熱中し、隣の女性は、こんな騒がしい空気にそよとも動じず、爆睡して頭をぐらぐらさせている。

スタジアムジャンパーは、ついにしゃがんでしまった!

髪の毛が前のひとのひざにつきそうである。

 

私の隣の席が空いたとき、知らせてあげようか、と思ったが前に立つ男性がさっと着席してしまった。

リュックとレジ袋を持って、ついに座席を確保できないまま、スタジアムジャンパーは終点近くの駅で再びばたばたと降りていった。

 

いっぽう、6分遅れの東横線

ものすごい混みようである。

つり革につかまる私の横におデブの女子高生。

彼女が肩にかけた固くて四角いカバンの端が私にぐいぐいぶつかってくる。

ちょっと、と真っ黒い剛毛の頭をごつんとやりたい。

こちらがもぞもぞしても、ちらとも動こうとしない。

でーんと構えている。

みっしり肥ったゆびを、スマートフォンから一瞬たりとも離そうとしない。

デイズニーのばかげたキャラクターのカバーがこちらに向いている。

 

女子の前の座席が、運良くひとつ空き、女子はここでも体制を変えないので、私はすみませーん、と割り込んで座る。

その後、わずかに車両が振動したところで、女子は、だだーっと横に倒れそうになり、にぶく騒然とする。

腰が硬いのだ。

だから身動きがとれない。

私の腰が一番ひどかったころ、新宿三丁目から新宿へ向かう混雑のなかで、よくひとにぶつかった。

「ちぇ!」とぶつかってきたひとをののしったが、実は、自分の腰がよくなくて、些細な衝撃を避けられないのだ。

だから、すいっと避けてなんとか通過できると、よくなっている、と思うし、どこからぶつかると、まだもうすこし、と思う。

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斜陽日記と斜陽とうどん

男の作ったフィクションと、女の書いた日記。

 

「斜陽」は太宰がおんなの声で語った一人称の小説で、

「女生徒」「恥」「皮膚と心」などと同じく、女装した男性の野太い声のような、ときどき地声の混じるような奇妙なナレーションである。

一方の日記は、ひたすら母を慕い、敬い、死にゆく母の克明な記録である。

 

母の死後、作家を追いかけていくシーンは、太宰のフィクションで、日記のほうは母の死で終わっている。

母の死後、恋の革命に生きようと決めた女性は薄汚い座敷で酒盛りしている作家にようやく追いつく。

現在の中央線、荻窪に作家の自宅があり、くじけそうになりながら、妻子ある家に乗り込んでいくが、お目当の相手はそこには居ず、妻から教えられた荻窪のおでんやへ行

くが、そこにも居ない。

おでんやに教えられた阿佐ヶ谷まで、探したがそこも出たあとである。

とうとう西荻窪の酒屋で作家をみつける。

酒場のおかみさんから同情されてうどんの出前をご馳走になる。

華族出身の主人公が、飲み屋のおかみさんや酒場で働く女性たちとうどんをすするシーン。

冷たい風の吹く寒い夜のことである。

「生きていくというのは、こういうことなのか」とわびしく感じるのである。

このシーンは、いわば主人公と破滅的な作家との恋の成就の場面へとつながるので、小説のほうのクライマックスである。

そこで、作家(太宰)が、酒場の女の子に、自分を追いかけてきた主人公を泊まる家まで送って行かせようとして、いやおんなの夜道は物騒だな、おれが行こう、と

「履物を裏口にまわしてくれ」

などと、おかみさんに頼むところが、なかなかにせこい。

はじめっからその気なのだ。

 

一方、日記にもうどんが出てくる。

母親が亡くなる日。

東京から、叔父一家が車で駆けつける。

叔父のすきなきつねうどんを、主人公はせっせとこしらえるのだ。

「おじさまは、わたしの作ったおうどんを召し上がってる」

と母に告げると、

「わたしだけに見せる笑顔で」おかしそうに笑った、というのである。

結核の母親が、食欲を失い、弱っていくさま、嗅覚や視覚や失われていくさまを描く娘の心がさびしい。

 

二冊を読み比べるうちに、急にうどんが食べたくなって、濃いめの味付けでうどんを煮た。

ネギと卵を入れてたべた。

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斜陽と斜陽日記

一日じゅう、ふせっていて、捨てるつもりでいた本、夫がだれかからもらってきた「花火」又吉くん、「女生徒」太宰治、古い週刊新潮など枕元に置いて読んでいたら、太宰治の強烈なパンチをくらって「斜陽」が読みたくなった。

アマゾンで注文して、読みはじめると、へぇ、こんなはなしだっけ?

と「女生徒」もそうだがおんなの一人称。

「おんな」の部分がリアルなような、リアルでない太宰本人のような、

小説本体以上に、年表のインパクトがすごい。

十代で自殺未遂、心中事件で自分だけ生き残って起訴されそうになる。

多くの女性関係、結婚、最終的に心中。

 

斜陽日記は、そもそも斜陽を書くにあたっての参考資料として、こちらも太宰に惚れ込んだ女性から差し出されたもので、こちらはほんものの日記である。

ストーリーも、ほぼ一緒。

私のなかでは、強烈な魅力ある人物として残っている主人公の弟直治は創作上の人物で、これは名前を見てわかるように太宰自信のように読める。

日記は、主人公と主人公の母の物語のようである。

 

母親が死の床で、娘を指差し、叔父に手を合わせるシーン。

「わたしが死んだ後、どうか娘をお願いします。」

という意味のジェスチャーは、創作のほうも日記のほうも表現もなにもかも同じであるが、創作では泣かなかったが、斜陽日記では泣けてきた。

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結婚記念日

昨日の指導考察の日づけを、19日から1を引いて18日にしたのに、今日が10月19日であることを忘れていたら、娘がお花を買ってきてくれた。

この一年、つまり保護犬が死んでからというもの、生き抜く馬力に自信が持てなくなっているので、この結婚記念日が何回めで、あと何回超えたら、どんなプレゼントがもらえるか、などと先のことを考えるのはやめておく。

 

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着物のきもち

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ひさしぶりに着物を着た。

ひさしぶりに会うともだちは、値踏みするような目でみることも 、マウントを取られた、などと思うこともありえない。

 

ずーっと腰の具合がわるく、体調も低迷していて、着たいなあ、と思っても、

ちょっとまて・・と首のこわばりのことを考えたり・・段取りとエネルギーを思うと「やめておこう」となる。

腰もましなようだし、天候もランチの場所も、ともだちのキャラも邪魔な要素はなにもない。

 

着替え始めたら、なんとすきっとお太鼓も難なく締められた。

 

時間ぴったりに現れた彼女は、

「あら〜着物で来てくれたの!」

 と笑顔。

ランチは、和食の店で牡蠣フライ定食。

お茶は、コーヒーとケーキ。

午後二時半くらいになると体力がもたなくなって、くらくらしてくる。

帰ろうか、と分かれて私鉄に乗って帰って来る。

めったに会わないが、40年以上のつきあいのこのひとは、別れるときはいつもちょっと涙目になる。 

 

八百屋に寄りたいのだが、着物を着ているのでやめておく。

奇異な目で見られるのもいやだし、

すてき!などとお世辞を言われるのもいやだ。

めんどくさい。

ひとがどう思おうと関係ない、という境地にはなったことがない。

常にひとの目を気にして、マインド・リーディングして、腹を立てたり、うぬぼれたり。

ひとの目を気にして生きるほど不幸なことはない、と言ったのはだれだったか。

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 ケーキは大ぶりで、食べきるためにはコーヒーが足りない。

友だちは、コーヒーのお代わりを注文してミントチョコケーキを完食。

私は、迷ったが、コーヒーのお代わりをあきらめ、ケーキを残した。

なまギリヤーク

新宿三井ビル55という広場で、ギリヤークが踊るというので、夫とでかけた。

新宿の通路は、塵っぽく暗く、歩く歩道はずいぶん前に有名になったけど、一方通行で中途半端。

広場に集まるとすでに人々が集まっていて、広場を囲んでぎっしり座っている。

歩道橋や建物の階段など、広場の見える位置に見物人がひしめいている。

 

来年50周年とかで、病気もあり御歳87という高齢でもあり、いかないと後悔するかも、と思い切って出かけたのだ。

車椅子で登場したギリヤークさんは、身ひとつで大衆の目を集める訓練を積んだひとらしい。

オーラというには、はかないなにかをを発信している。

赤い着物を着て、顔面を白く塗った老人がよろよろと立ち上がって踊り出す。

大道芸の極意。

滑稽さとグロ。

最後は、母親の小さな遺影を衆目にぐるりと見せて、おかあささささーんと叫ぶ。

浪花節

 

私は観客のほうにも興味がある。

ふつうの親子連れ。

ひとりで席を取っている男性や女性。

業界のひとっぽいひともいるし、アートな関係のひともいるが、少ない。

大半は、カテゴライズしにくい、ふつうのひと。

通路を先に歩いていた帽子を被ったお婆さんと、手をつないだお爺さんのカップルが、ここにいた。

 

待ってました!

とか、

ギリヤッーク!

とかカッコいいかけ声が、間をとって叫ばれる。

 

色とりどりの紙に包まれた投げ銭が、雨のように飛び交う。

金なのに、なまぐささがない。

美しくすらある。

 

ギリヤークさんには言いたいことがたくさんあるらしいのだが、

パーキンソンで声がわなわなするし、小さいし、遠いし、なにを言っているのかわからない。

なにを言っているのかわからないことを、じっと聞きつづける観衆。

 

最近話しながいよね、去年くらいから、

と後ろのカップルの女性のほうが言っている。

なんだろ、歳かね

などと辛口。

それでも、愛で見守っているのか。

 

最後は「老人」という旗を観衆どもにぐるっと見せて、すっぽり脱いで赤フンだけで踊る、というか歩行するポーズ。

老いさらばえ、やせ細り、それでも目をそこに集めずにはいられない芸人魂。

 

芸人は、天然で単純なひとのようである。

このひとを支える人間は、その単純さや天然さに惹かれるのだろう。

 

ごみごみした新宿の空間は、味わったことのないあたたかな空間になっている。

三連休最後の一日。

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おかあさぁぁぁぁぁん! 

 

 

 

 

中秋の名月

物干しに出て、月をみる。

雲が厚くて、ぼんやりと透明な光がむこうに隠れている。

月のかたちはみえない。

 

もともとこの季節、さまざまな異変があった。

東洋医学でいうと、この時期は婦人科系に負荷がかかるのだそうだ。

中秋の名月とか、池上本門寺のお会式とか、そのころ入院していたこともある。

当時、仲の良かったひとが、もうちがうのだが・・、クニエこの時期いつも調子わるいね、と言うので、初めて気がついた。

 

しかし昨年暮れ、

犬が死んで、

近所の親しくしていたひとが亡くなって、

年末年始、宿敵ともいうべき夫の姪が三歳児を連れて上京し、

わたしのところへ来る気はさらさらなかったのだが、予定していた宿に病人が出て、ほかに頼るところも金もないので仕方なく、うちに転がり込んだ。

ほんとうに断って欲しかったが、夫は受け入れた。

あたまが狂いそうなほどに、疲れがピーク、

ちっとも休めないまま正月あけから連続して仕事が入っていた。

腰の調子が悪く、たびたび身体がまっすぐにならない事態に、暖かくなってやっと調子が取り戻せそうだったのが、また夏にきて悪くなった。

 

なぜか、年末からフライドチキンなど食べ始めた。

ムーミンのお皿がもらえるサービスに乗ったのがはじまりで、

こんなもの食べるのは数年ぶりだったのに、いったん食べたら美味しい。

こんな脂っこいものを食べて、調子が悪くならないのだからきっと丈夫になったのね、などと勝手な解釈、

ジャンク・フードはジャンクだからこそ、食べる者をジャンキーにするのだ。

ついでに中華料理店へ行くのが好きになった。

ここの中華はいやな後味がない、などとたびたび行ってジャンボ餃子や麺類など注文した。餃子だけ買いに行って、おかずにしたこともある。

かんがえられないことなのだが。

 

食欲はずっと低迷気味で、味がはっきりしたものしか美味しくなくなった。

昼の麺類に豚肉を大量に入れたものを食べ、夜はすき焼きなどというメニューも、いま思うとかんがえられない。

春に行った断食センターの所長に、

《あなたは体重をこれ以上下げないほうがよい》と言われたせいもある。

ダイエットもしていないのに、食欲がなく体重が落ちるのはなんとも不安である。

 

夏、腰が完全に悲鳴をあげ、野口整体に行くと、あっさり「たべすぎ」と言われる。

え?

この太り方はたべすぎ、と言われる。

でも体重は増えていませんよ、などと言い訳をするが、体重も1キロくらい増えている。

でも、1キロ。

いや1.5キロか。

 

整体の帰りに、遅くなったし、なにか買っていこう、とデパ地下へ寄るとよいにおい。

鳥の唐揚げの期間限定コーナー。

鳥の唐揚げって揚げ物なのに、大量に買い込んでしまう。

車は急に止まれない。

 ブレーキが効いて来るまで、腰をもう一回ぎくっとしなくはならなかった。

不思議。

たいてい食べ物で失敗する。

食べ物で失敗する原因はストレスなのだが。

ストレスがあると、脂ぎった、味の濃い、ふわふわしたものがどうしても食べたくなる。

肉をやめ、中華をやめ、油脂の使ったせんべいをやめ。

そういうものをいかに食べていたか、思い知る。

 

このところ食事の見直しが功を奏して、いつも調子のよくないこの季節、意外と良い気分で過ごしている。

 

しばらく物干しにいると、くっきりと青い月が濃い雲のなかから現れて、思わず手を合わせる。

雲がいきもののように息づいて、目にぐるりと海のように広がる建物の向こうに、赤い光のつぶがけたたましく点滅している。

 

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