ロイヤル・ウェディング

朝、ふとんのなかでへんな頭痛がする。

後頭部の皮膚がひっぱられるような痛み。

初めての感覚に怯えて、家族を呼び、あたまに手を当ててもらう。

 

肩がひどく凝っている。

肩こりが原因かもしれない、と娘がネットでしらべてくれる。

 

そういえば、BBCメーガン・マークルさんとハリー王子のウェディングシーンを長時間観てしまった。

かなりの時間、目をこらして画面にはりついた。

そのせいかもしれない。

そろそろテレビを観るにも老眼鏡が必要になっている。

 

ちょっと恥ずかしい。

 

昔の職場に十歳以上年うえの友人がいた。

彼女は安保闘争の時代の元活動家で、フェミニスト、といえばいえたかもしれない。

「ザ・フェミニスト上野千鶴子小倉千加子によれば、結婚しているおんなはフェミニストとはいえないそうだから、彼女はフェミニストといえるかもしれない。

結婚もしなかったし、子どももいなかった。

なよなよと媚びるおんなに対しては容赦なかった。

 

その彼女が、週末ロイヤル・ウェディングをずっと観ていた、というのを聞いて、絶句したことを思い出す。

そのウェディングとは、ハリー王子の母、ダイアナさんの結婚式である。

私には、英国王室の結婚式を観るなど思いもよらなかった。

私の顔を見て「ミーハーだからさ」はははは、と大口をあけてわらった。

私のおどろいた顔がおかしかったのか、普段おとこと結婚なんてふん、と言っている自分への自虐か。

 

メーガンさんという黒人の血の入っているひととハリー王子の結婚を、英国王室が受け入れた。

ラードで、平民であり、バツイチである彼女の堂々たるふるまい。

一点のくもりもないような彼女を、どこからから狙撃犯がねらっているのではないか、

華麗な純白のウェディング・ドレスが血塗られたものになるのではないか、

画面を観ていてへんに緊張した。

こわくて背中がぞくぞくした。

英国ミステリー、シャーロック・ホームズの見過ぎである。

 

その友人は、ダイアナさんの死を知らずに亡くなった。

私が母となり、オケタニ式母乳育児をしていたころ、十年以上たって病気が再発した。

入院した病院に、赤ん坊を実家にあずけてでかけたのを思い出す。

授乳と授乳のあいだの二時間半しか、私が赤ん坊と離れていられる時間がなかったから、大急ぎで出かけて、大急ぎで戻った。

ロイヤル・ウエディングから、そんなことを思い出す。

 

f:id:mazu-jirushii:20180522054438j:image

 

ジエーン・フォンダ

2018年5月19日。

この季節、自分はどう生きてきたのか・とブログ振りかえる。

 

2011年の6月のブログより

BSで録画予約しておいた「獲物の分け前」を観る。

三十年ほど前、友人がVHVのビデオから録画してくれて、画像はいまいちであったが、実際に映画を観たのはそのときが初めだった。。

 

中学生のころウォルト・ディズニー映画「クレタの風車」に出演したピーター・マッケナリーという俳優に夢中になった。

ディズニー映画によく出演していた子役ヘイリー・ミルズが大人になって、初のキスシーンの相手役を勤めた(幸運な英国若手俳優)というふれ込みだった。

映画館で買ったパンフレットによれば、彼は英国シェイクスピア劇団のメンバーということであった。

蒲田東口にあった映画館で購入したペラペラのパンフレットには、撮影オフの日に砂浜、クレタ島の海岸にちがいない、に寝そべってなにやら話しているふたりの素顔の写真があった。

めの粗い白黒写真である。

 驚くことにこの写真を今ネットで見ることができる。

この写真を中学生の私は、念入りに大切にながめていたもんだなーと感慨深い。

 ピーター・マッケナリーについて知りうる情報はクレタの風車のパンフレットに載っていた小さな顔写真の下に書いてあった経歴だけである。

 

当時通学に使っていた田園調布駅は、ホームからホームへ渡るために階段の通路を越えなくてはならず、教科書の入った重いカバンをぶらさげて階段を登ったり下りするのはたいへんだった。

その通路に時々映画広告がはってあった。

 ある日、いつものように通路をたらたらと通ると、ピーター・マッケナリーさんらしいひとが裸の女性の前で同じくで座っているポスターがあり、映画の題名は「獲物の分け前」となっている。

通路に立ち止まって、裸のマッケなりーさんのポスターに釘付けになるわけにいかない。

そうしたかったが。

そのときは知らなかったが、裸の女優はジェーン・フォンダであった。

どうしてもその映画が観たい。

早熟で知られるミヨちゃんに、一緒に行ってもらえないか・・と聞いてみたがタイトルに「獲物」とくればエッチなものに決まっているから、成人向き映画に違いない、むり、と言われ泣く泣く断念した。

 

それから数年たって、金沢文庫でひとり暮らししていた頃、新聞のテレビ欄で「獲物の分け前」を発見した。

テレビがあるにはあったが、アンテナがなく白黒の画像が流れたり途切れたりしてよくみえない。

ほとんど見えない画面に釘付けになった。

そしてドシャぶりの雨の茫々と流れる奥に映る映像ピーター・マッケナリーさんを発見したときは心臓が高鳴った。

クレタの風車」以来の再会であった。

 

友人がくれた「獲物の分け前」を、初めて最初から終わりまで見たとき、ピーター・マッケナリーの持つ魅力にあらためて感動した。

中学生の私は「クレタの風車」というお子さま映画に出演していたピーター・マッケナリーの発散する性的魅力を理解していたのだろうか。

「獲物の分け前」という映画「父親の新妻と恋に落ちるひとり息子」という神話的テクストに、この英国俳優の風貌はぴったりと一致する。

もともとシェイクスピア劇団の役者ということだから、目なざしは強く演技に迫力がある。

相手役のジェーン・フォンダはこのとき、すでにアクターズでスタニスラフスキー・メソッドを習得したあとか前か・・わからないがイケイケである。

トランジスタラジオを持ってサンバを踊るシーンや、スケスケのカーテンを裸体に巻き付けてストリッパーのように踊るシーンなどは何回も巻き戻し、くり返し観る。

 

恋愛を三角関係で描くことはドストエフスキーから始まったのだ、と言ったのはイワン・イリイチだが、この映画の父と息子と若い女という構図は決してひとつの軸をまわっていないちぐはぐさが実にうまく描かれている。

三者それぞれのズレを三者のふとした表情や髪をかく微妙な仕草に語らせている。

 若い女は若くはあるが、肉体が老いに向かう年齢に突入しつつあり、二十二歳の美しい男性に溺れる。

二十二歳の若者は父と継母のあいだにもつれこむ苦しさにあえぎながら所詮自分というものも、現実というものも楽観していない。

父親を裏切れない、というしばり以上に現実的な判断、

つまり「ふたりで逃げたってうまくいきっこないさ」という冷めた目が悲しい。

そしてミシェル・ピコリ扮する父親はキョーレツである。

初めて新妻と息子の不倫を疑い、息子のベッドで妻のネックレスを見つけたときの顔、

ふたつ並んだ枕のひつとを取り上げておそるおそる自分の鼻を近づけて、匂いを嗅ぐシーン。

彼はここであらましのすべてを理解する。

そのときのすさまじい目。

戸惑い、怒り、自己憐憫

妻と自分の息子に裏切られて無惨に敗者となった彼は復讐を開始する。

彼がそうしようと思ったらもう、だれにも止められない。

徹底的に冷徹な男をピコリがさらりと演じる。

 

義理の母と息子であったふたりが、性的な関係に陥る瞬間のシーン。

はずみでもつれているうちにそうなる。

我にかえって立ち去ろうとする若者のすそに手をのばし行かせまいとする女。

沈黙が漂う。

そして一線を越える。

肉体が異なる意味を持ってしまう。

「母と息子」が「女と男」になって、嫉妬がうずまくようになり、罪悪感に責め苛まれながら

性的な関係から抜け出ようともがきながら、深くからみとられていく。

そしていよいよ行き詰まってどん詰まりで行き止まりになるまで、三者ともが禁制にひっかかりながら、爪を立てて抗い、あえぎ、苦悶する。

美しい舞台装置と魅力的な背景、

ヒッピー文化やモッズスタイル、

ロックンロール、東洋趣味といったものに華麗な彩られながら悲劇が展開していく。

 

「獲物の分け前」がビデオ販売された当時、高価で変えなかった。

「バディム監督の耽美主義」というキャッチコピーがこの映画の本質をよく表している。

 

映画製作は1966年となっていて、ジェーン・フォンダ反戦活動家になる前であり「ワーク・アウト」という空前絶後のベストセラーを出版する前でもあり、父ヘンリー・フォンダと和解して映画共演する前のことである。

バティム監督とのあいだに生まれた娘はジェーンがなにかに立候補した選挙直前に麻薬でラリっているところを保護されるという事件を起こしている。

ロジェ・バディムとの関係が、周囲の予想を裏切らずにすぐに破綻したあと、

再婚したジェーンが、新しい夫と夫のあいだにできた男の子、バディムとのあいだにできた娘の写真を雑誌で見たことがある。

ジェーン・フォンダは大きな金の輪のピアスをしてすがすがしかったが、娘だけひとり真っ白に顔を塗って道化師の化粧をしていた。

はにかんだように笑っていたが彼女ひとりだけカメラから目をそらしていた。

以来私はこの子のことが気になっていた。

 

 

一方ピーター・マッケナリーは、ウィキペディアによればこちらが知らないだけで英国のテレビドラマなどに出演していたらしい。

このひとはゲイにちがいあるまいと思っていたら、一度目の結婚でできた娘がなんとかマッケナリーといい女優をしている。

すっかり爺さんになったマッケナリーの顔写真とネットでお目にかかった。

大きな目のまぶたが完全にたれて一重になったにこやかな顔。

幸せな一生だったらしい。

 

原題は「La Caree」はらわたという意味のフランス語である。

原作はエミール・ゾラの中編である。

ミシェル・ビコリ以外のふたりは英語圏のひとだからフランス語は母国語でないはずだ。

ジェーン・フォンダは劇中カナダ出身ということになっていて英語で歌うシーンがあるが、ピーター・マッケナリーは一貫してフランス語を喋る。

このあたりの不均衡さもこの映画に不思議な魅力を添えている。

 

 

邦題は「獲物のの分け前」と記されてたが、英語圏では「The Game Over」というタイトルだったらしい。

ポスターの題が「ケームは終った」とか「ゲームの後」とかだったら、ミヨちゃんも付き合ってくれたかもしれない。

 

おませで知られたミヨちゃんは、同級生のなかで一番はやく亡くなった。

 

f:id:mazu-jirushii:20180522054326j:image

 

 

 

乱読

連休中に「林芙美子展」へ行って、その気になって図書館から借りてきた林芙美子の「放浪記」と「戦場」昭和16年ころの満州紀行の本。

林芙美子はだいすきな作家で、一時全集を借りてきて読み漁った。

こんなにおもしろいのに評価が低いように思っていた。

女性だからだろう、とも彼女の経歴にも関わりがあるのかもしれない、とも思っていた。

しかしいまや世田谷文学館へ行くと、林芙美子の研究者やファンがたくさんいることがわかる。

 

吾妻ひでおの「逃亡日記」

これはマンガとトークと妙な写真・・黒服のゴスロリ美少女といかにもアル中あがりの中年漫画家が、かつて漫画家がホームレスをしていた公園で撮ったよくわからない写真・・ふざけているのかシリアスなのかよくわからない本。

吾妻ひでおという漫画家をしらなかったわたしは、おそるおそるこの本を中古で買って、読み始めた。

おそるおそる、というか疑って読み出したため、頭に入っていなかったので、二度読みする。

ここまではベッドで枕に頭をくっつけて横向きに読む。

 

同時にハートネットでたまたま観た松本ハウスの「統合失調症がやってきた」 と、エムケ「憎しみに抗って」・・期限内に読めず、ついに自腹を切って新書を購入・・

は、身体を横にしては読めない。

頭をたてにしないと読めない。

集中して考えないと先にすすめない。

ハウス加賀谷のストーリーは興味深い。

浦河べてるの家の本を読んでいるので、統失のことは少しは知っているつもりだが、こうして当事者の子ども時代からの話しを聞くと、子どものこころというのはたいへんなものだ、と思う。

子どもだから、と無理をさせたり無頓着だったりしがちだが、子のほうは親に合わせて、うんと無理をしていることがあるのだ、こころが全壊するほどまで。

自分の子が心配になる。

 

映画は「グランド・フィナーレ

去年WOWOWに加入したときに録画したもの。

ジェーン・フォンダが、すごい汚れ役で出ていたのを思い出して、もう一度ちゃんと観たくなった。

はじめこのいわくありげな老女優がまさかジェーン・フォンダとは思わなかった。

え?

と映画のサイトをチェックして初めて知った。

マイケル・ケインとハーヴエイ・カイテル主演。

豪華なスイスの保養施設が舞台。

なんとなくいやな味が残る理由を考える。

この映画はミソロジーだ、と思う。

女性の描き方が歪んでいる。

 

最新のジェーン・フォンダが見たくなったのは、何年も前の6月、自己ブログで「獲物の分け前」の感想を書いたのを久しぶりに読んだから。

6月のブログをまとめて読んでいた。

「獲物の分け前」は、若かりし頃のフォンダ主演のフランス映画である。

何年も前の6月に、その話しを友だちにしたら、わざわざDV Dを借りてみちゃったよ、と言っていた。

感想は言わなかったから、おもしろく観たのかどうか、

もうこの世の人でなくなってしまったから、確かめるすべはない。

 

f:id:mazu-jirushii:20180516080555j:image

 

 クレヨン・ハウスのフェミニズムコーナー。

朝はやく行ったら、絵本コーナーの職員が掃除に参加しない、と他のスタッフに文句を言われていた。絵本コーナーにあるまじき険悪さだった。

 

友だちと約束して、会い、ランチとお茶をすると12時前に待ち合わせをしても、別れるのは夕方だった。

同じ店に家族と行っても、あっというまに食事が終わり、お茶もさっさと飲み終わってしまうのに、彼女と一緒だといつまでもいつまでも話しが尽きない。

当時は、犬が二頭いて夕飯を待っているから、腕時計を見てそろそろ、と立ち上がるのはわたしであった。

同級生どうしの話しから、中高時代の思い出や、それぞれの抱えるなやみ、互いに文芸部だったので本の話しもして、濃い時間になり、分かれた翌日くらいには間髪いれず手紙が届いたものだ。

 

ただ、話しが政治に及ぶと、いっきに反動的な色をつよめた。

人種差別はいけない、という良識は当然あるはずのひとだったが、日本の未来を憂う彼女は、一定の外国人がこの国に入り込んできている、と声をつよめた。

メディアにも、政治にも侵入して画策している、と妄想のようなこという。

当然自分以外のだれもが同じ意見のはずだ、というスタンスで、だれだってわかってるよ、と言ったあと、

「ねえ」

と相槌をもとめた。

この「ねえ」は、よくおばさんたちがあまり自信のないことを言うとき、たびひたび出る「ねえ」である。

当然と思っているが、その証明ができないため「ねえ」と相槌をもとめるのだ。

 

いつからか会うたびに、目を釣り上げて外国人を叩き、国を憂う彼女をみるのがいやになった。

熱のこもった怒りの感情がどこからうまれてくるのか理解できなかった。

裕福な家に嫁ぎ、自分では決して生活にこまらない身分のひとが、生保受給者をたたく怒りが理解できない。

一方で、夜中のバスに揺られて震災の炊き出しに行ったり、病気の子どもたちへのボランティアに自から出資して行ったりもしていた。

 

わたしには、ばらばらにみえる、困ったひとたちを助ける活動と、日本にいる一定の外国人を叩き、生保受給者はなまけものの不正受給者、と怒りで顔を青くする彼女は、自身に矛盾はなかったのだろう。

根っこは「憂い」なのか。

 

カロリン・エムケの「憎しみに抗って」という本を読んで、やっと納得ができた。

もちろん、友だちはヘイト・スピーチに参加して声をあげるようなことはなかったろうから、違う話しだ、といえば違う話しなのだが。

憎しみの感情のメカニズムがわかりやすく、そしてたいへん悲惨に紐解かれている。

 

「人種差別に走りやすいひとは、否定的な体験を通して自己形成しているひと。

制約や障害が多い環境のなかで、受け身で適応していかざるを得なかった無力感があるひと」

 

彼女が幼少期から女の子だから、という理由で毎朝玄関掃除をさせられていた、と聞いたのは、いつだったか。

子ども心に、なぜ自分には日曜日がないのだろう、と思ってたよ、と悲しそうな目で言った。

若くして恋愛をして、地域の資産家に嫁いだ。

結婚に、母親は反対だった、という。

長男の嫁として、大姑、舅、姑を看取り、子育てをし、大家族の食卓、月に一度の会合の食卓を担ってきた。

あるとき、月に一度家を訪れるお坊さんが、彼女の歩き方を見て、お嫁さんをこんなふうに扱ってはいけない、と舅に言ってくれた、と言う。

廊下をまっすぐ歩けなくなっていた、と。

家の外に初めて出かけたのは、長男の幼稚園の保護者会だった、と。

お盆や正月は、舅姑の過ごす伊豆の別荘での掃除とまかない。

奴隷じゃん、と思った。

 

女であることで、ここまで使われるのか、と空恐ろしいような話である。

これもまたドメスティック・バイオレンスの一形態ではないか。

私はすきでやってるの、と言ったとしても、

彼女の家事自慢、料理自慢はさりげなく語られるものだったが、

 

彼女が家を出て、隷属状態から自分を解放させることができたのか?

できなかったのだ。

 

怒りはさまざまなものに放射された。

ベビーカーで外出するママがにくい。

夫に子どもをだっこさせて、手ぶらで歩くママがにくい、

外国籍のひとたちがにくい、

生保対象者がにくい、

 

怒りと憎しみは、対象を選ばない、とエムケは書く。

それがユダヤ人であれ、黒人であれ、同性愛者であれ、歴史は時代ごとに対象を変えてきた。

その社会で弱者として目立つものであれば、いつだって選択されうるのだ。

 

f:id:mazu-jirushii:20180513185537j:image

 

リュウイチ・サカモトの時代

テレビをつけると、「ファミリーヒストリー」という番組をやっている。

娘がこれやだ、と言うが、老いたサカモトに興味を持って、そのまま観た。

 

かれの家族史はなる「ほるほど」というものだったが、

私の気持ちは、イエロー・マジックが一斉を風靡したときの、そのころ勤めていた職場のこと、というか職場のひとたちとの人間関係に移行した。

かれらの反応は一斉に「ナニコレ」だった。

キモいという言語は登場していなかったが、もしあれば「キモい」と言っただろう。

三人の音楽は、これまでにない新しいものだったが、三人ともべつに美形でない、ということもあったろう。

ジャニーズ系華やかなときでもあった。

高卒で働かなくてはならないひとたちの、下町の階層の一般的な反応、といえなくもない。

サカモトの連れ合いの高音域で歌う女性に対しては「ぶす」とわらった。

忌野清志郎と教授サカモトのCMソング「い・け・な・い ルージュマジック」が「夜のヒットスタジオ」で紹介されて、女装したふたりのキス・シーンが大写しに映ったとき、

どきどきした。

「わたし」がどう思うのか、より、観ている職場の女性たちがどう思うか、気になった。

「ゲー」とか「ゲロゲロ」とかいじわるなことばを翌日聞くだろう、と苦痛だった。 

他人がどう感じ、どういう感想を持つのか、ということが。

必要以上に、イエロー・マジックをもちあげて、宣伝する「わたし」の意図するのはなんだったのか。

「革命」?

 

そのころ、わたしは組合をやめた。

もともと組合の側からはカウントされていない、「あんなばか」とかいわれていたにちがいない。

新・旧の左翼からきらわれていた、「きらわれていた」というのも自意識過剰にすぎるかもしれない、相手にされない、というのが正確なところだろう。

それで、替わりに職場の女性たち、高卒で、集まっては他人のわるぐちを言い、週末まで集っては食べたり飲んだりする、そういう当時の職場の「多数派」に積極的に参加することにした。

同僚のスキャンダルや芸能人のニュース。

保守ともいえない、たれながしの情報をそのまま飲み込んでいるひとたち。

いたましいことに、彼女がわたしに向けたのはイジメのようなものだったが。

そのことに気がつくまでに時間がかかったが。

じぶんではかっこいいことを言っていた。

組合をやめて「ふつうの」ひとたちとの付き合いを大切にした、とかなんとか。

 

あれは一体なんだったのか。

ボス的なひとはいた。

年中酔っ払っていて、弱いものに怒り向けるタイプのひと。

彼女は、幼少期に母親が奔走し、船員であった父親とのふたり世帯となったが、その父親も亡くなってしまったあと、叔母一家に預けられた。

その集団では、わたしを含めて片親の家庭の子が三人、両親ともそろっているが兄の暴力があったひと、中心はこの四人だったかもしれない。

わたしの役割は、なんだったのだか、と老教授サカモトを観てあらためて思う。

 

当時、親しいともいえないが、密着はしていた同い年の組合活動家がいて、彼女と教授が同じ高校だった。

すでに高校で活動していた彼女に興味を持って、かれが近づいてきたのだが、校門で母親が待ち受けていた、と。

わかくてきれいな、組合の活動家、「新」のほうの、

彼女は一時期スターのように、組合集会の壇上でとうとうとマイクを持った。

オヤジからのヤジに、冷静に応酬していた白い顔。

彼女も早々に活動を下りて、早く仕事をやめた。

たまに会うと、昔と同じ左翼の口調になる。

 

にたものどうし。

なにかになったり、どこかに参加していないと、弱くて立ってられないものどうし。

 

f:id:mazu-jirushii:20180426082525j:image

 

こころたび

たまたまこころ旅の手紙を読む場面に出くわし、苦しくなる。

最近は、つづきは夜とかになっているのか、

午後7時から後半依頼された場所に到着するというので、もっと泣くことになるといやだな、と思いながら録画しておいた。

 

その手紙には、戦後九歳だった女性が、ついに自転車に乗れないまま八十になってしまった、とのこと。

父親に頼んだが自転車は買ってくれず、そんなに乗りたかったら俺の自転車に乗れるようになってからにしろ、といかにも父親の言いそうなことを言ってついに彼女は人生で自転車に乗る機会を逸してしまった。

親から、タイミングをはぐらかされて人生に大きな損失をもたらすことがあるよい例である。

 

手紙は、毎朝、徒歩で通学する彼女の脇を、自転車通学のひとたちが追い越していくのだが、いつも一番最後に自転車で過ぎていく女の子がいて、その子が乗っていたのは父親のものだったのだろう、大きなくろい自転車であった。

小さな身体で、大きな男物の自転車を漕ぐ姿が左右に揺れて、お尻をサドルにこするように乗っている姿が滑稽で、ああ、あの姿が自分でなくてよかった、と胸をなでおろした、というから、

女の子はさぞかし髪振り乱し、必死のようすで通学路を走っていたのだろう。

 

一年ほどして、しばらく姿を見ないと思っていたら、中学校の合同斎で、当時めずらしくなかった結核で亡くなった子ども遺影のひとりがその女の子だった、と言う。

「一年ほど、姿を見なくなって」というあたりから、かなしい結末の予想があったが、

すっかり参ってしまった。

 

いつも必死で、先に走る同級生に遅れまいと、小さな身体でおとなの自転車を漕ぎ、追い越すときの顔はいつも上気したてれくさそうん笑顔だった。

そして一年後に体育館の葬儀で発見した遺影のなかでも、やはり微笑んでいただろう。

なんとかなしい。

 

だから、もう後半観ないでおこう、とも思ったが、観てしまった。

 

元中学校舎のあった、いまは修道院から、加藤神社という亡くなった女の子が住んでいたという場所までが、こころ旅の経路である。

火野正平は、自意識と不器用さがおっかなくてなかなか落ち着いて観ることができないのだが、このときもかわいそうで不憫な女の子のことを上手に語れず、

山坂はなかったけど、遠かったよ、

こんな遠い道まいにち通ってたんやな、

とぽつんといっただけ。

 

この話の内容は、映像が浮かんでくるようなすばらしい手紙の文章に持ってかれて、後半は観なくてもおなじ。

 

f:id:mazu-jirushii:20180420134927j:image

 

「忘れられた巨人」

とうとうおもしろい、と思えないまま「忘れられた巨人」が終わってしまった。

おもしろいよ、すぐによめるよ、と言う夫のことばを真に受けて、そういう読み物が必要なときのために取っておいた。

そういう読み物が必要なときとは、

力がなく、

根気がなく、

むこうからもひっぱってくれないと読み進めない、というとき。

 

まず「お姫様」と年老いた妻をよびかける年老いた夫。

「お姫様」ってなんて言ってるの、と夫に尋ねる。

英語版で「princess」となっている、という。

マイ・プリンセスではなくて?

と聞くと

ちがうという。

大文字?

ときくと

小文字、という。

なにか英文の脈絡があるのだろうが、こちらにはわからない。

自分の妻を「お姫様」と呼ぶ夫、

「お姫様」としか呼ばない夫が気に触る。

子供扱い?

おだててるつもり?

違和感をうまく説明できないが。

 

カズオ・イシグロのテーマには「記憶」が重要な位置を占めている、と思う。

「わたしを離さないで」でも「日の名残り」でも。

でも、この「巨人」では、記憶そのものが陰謀によりひとびとから失われ、記憶が定かでない意識を生きている、というなんとも具合のわるい、設定である。

ひとびとの会話も、かみあっていない。

かみあわない会話、現実世界では会話はかみあわないのがふつう、といえるかもしれないが、かみあわない会話を活字で読まされることの苦痛。

かんべんしてよ、と言いたくなる。

 

何年か後に自分の感想を恥ずかしく思う日がくるのかもしれないが、いまは「なんだこりゃ」とノーベル文学賞受賞者の小説にけちをつける。

 

f:id:mazu-jirushii:20180416183556j:image