アカハライモリ

アカハライモリのカメは(カメという名のアカハライモリは)小さなエサをひとの指から食べるようになり、このまま慣れるのかと思えば、そうでもなく、水中に落としてやっても別な方向を探したりして、どうも学習しない生き物のようだ。

 

実は、このカメはメスのアカハライモリで、一時オスのアカハライモリと一緒に飼っていたのだが、このオスはある日水槽を脱走し、みつけた夫がなぜか庭に放してしまった。

夫には、以前ヤモリが猫にいたぶられて部屋の隅にほこりまみれでぐったりしているのを見つけ、庭に逃がそうとしたがもう死んでいた記憶があり、

猫はべつにいたぶるだけで、ヤモリを食べるわけではない。

ひでぇなぁ、と夫はがっかりしていた。

そのときのことがあったので、水のなかでしか生きられないアカハライモリをヤモリと間違えて大急ぎで外に出してしまったのだ・・。

 

その夜「たいへんなことをしてしまった」

と意気消沈して二階に上がってきて、先に休んでいる私はどうしたの、とねべけまなこで聞くが、うーっとうなってそのまま寝てしまった。

 

一匹になったカメの元気がなくなって、ただでさえじっとしていることが多く、斜めに浮かんでいたり、へんな角度にねじれて水中にぷかぷかしたりしていると、

「あーっ死んでるー」とちょいちょいまちがえるのだが、暖かいのが苦手な生き物で、夏のあいだは保冷剤を水槽にかぶせて水温があがらないようにしていた。

それがガスストーブを点けるようになって、暖かい空気が滞留する部屋の角に水槽があるのが気になっていたのが、ついに動かないだけでなく、エサを食べなくなった。

あわてて水槽を玄関に移して様子を見ていたが、娘は死んだら桜の木の下に埋めよう、などと気の早いことを言う。

ひとつきほどエサを食べず、従ってフンもなし、ポンプから濾過した透明な水のなかで相変わらず生きているのか死んでいるのか。

 

いっきに気温が上昇して春めいたある日、突然ばーんという音が台所から聞こえてきて猫が脱兎のごとく目の前を走り去って行く、あわてて台所に行くと真っ黒い虫がひっくりかえってバチバチいっている。

この蜂は後からクロハナマル蜂であることがわかる。

猫は蜂に刺されたかもしれない。

きゃあーっと叫んだ。

蜂はほとんど死んでいた。

のんきに毛づくろいしているところを見ると猫が刺されたようでもない。

やれやれ、と思って外のゴミ箱に蜂の死骸を捨てて、玄関に戻ると、玄関のタイルの上に赤いものがごみだらけになってうごめいている。

よく見ると、アカハライモリ??のようなのだ。

水の中で見るのと、外で見るとのは大きさも色もちがっている。

あ゛あ゛あ゛と、あたま、こころ、からだ、ががばらばらになり、このいきものを手でじかにつかむことに抵抗があるが、そうも言っていられない。

つかんでみると意外に固い。

玄関のほこりにまみれたアカハライモリに息をフーフー吹きかけてほこりを飛ばし、水槽にぽちゃん。

けっこう元気に泳ぐ。

 

数日後、もやもやしたものをかぶっている。

いよいよ死んだのか、と思って娘に言うと、水槽に見に行った娘が、

「ちがうよ!」

と叫ぶ、

「これ脱皮だよ!」

え゛え゛え゛だ、だ、だっぴ!

わが家のアカハライモリ・カメは、脱皮したのだった。

剥けた皮が、アカハライモリそのままの姿で、水底にゆらゆら沈んでいる。

脱皮するので、不調だったのか。

一歩前にすすむためには、じっと停滞する時間が必要なのか。

f:id:mazu-jirushii:20190402061319j:image

会話

土曜日の東海道線車内。

ボックス席の窓側に向かい合って座る女性の横に席を取った。

なにしろ寒い。

ホームで電車を待っているあいだに冷え切ってしまった。

ふつうはボックス席に人がいる場合は座らないが、そこが暖かそうである。

ひとのぬくもりで暖をとるしかない。

私が座ると、さっと前に若い女のひとが座った。

 

電車のなかの会話の耳をそばだてることがある。

一度、中学生がカバンを下において座る登校中の電車のなかで、一番からだが小さな子が、うち毎日永谷園御茶漬海苔、毎日お茶漬けだよ、365日ずっとそればっか、一回かあちゃんに朝ごはん、ちがうもの喰いたいって言ったらキレられてさ、

などと言っているのがおかしかったし、

試験中の女子が、きょうおでんなんだよ、おでんっておかずにならないじゃん、と。

しかも、ひるのおでんって味しみてないしぃ、など。

・・そういえばおでんはおかずにならないかも、以来おでんをするたびに彼女たちの会話を思い出す。

食べ物の話しが多い。

今日も保育園の卒園式で、おかあさんへのお手紙に一番多かったのは、

いつもごはんをつくってありがとう、だった。

おいしいごはんをつくってありがとう、というのもあった。

ママもたまにはやすんでね、などというのもあった。

 

東海道線の女性ふたりの会話。

どうやらこれからふたりで静岡に行くらしいのだ。

ママ友とも思ったが、今度どこそこのギャラリー行ってみようか、アーティストで、などと言っている。

私の前のひとが、向かい合って座る、私のとなりのひとに、月一に行くキャンプの会の話しをしていてをしていて、それに誘っている。

「キャンプっていいよね、今度行く?」

「行きたい!ぜひぜひ、誘って誘って!」

・・へぇわたしはキャンプなんてだいきらいだ。

「料理上手なおじさんがいて、すごーくおいしいの楽しみで、バーベキューもいいよね」

・・バーベキューきらい〜なにを食べても食べた気がしない。

 

話し手が前のひとから隣のひとにかわって、もっぱらテレビの話し。

ふたりとも観ている番組が同じらしく、時間帯が一緒ということか。

ミッツ・マングローブの名前が大船観音を通るときに出てきた。

バラエティやドラマの説明をしている。

 

このふたり、ママ友?アート仲間?

 

あんまり親しい間がらではないようにみえた。

f:id:mazu-jirushii:20190401055743j:image

 

チャコちゃん

中高一貫校の女子校で、急に来なくなったスズコのことを考えていたら、なぜか小学校時代のチャコちゃんのことが思い出されてきた。

チャコちゃんのあだ名は「ゾウ」

身体が大きく、どっしりしていた。

勉強がよくできて、本をたくさん読んでいた。

卒業後、一度登校するバスのなかで会って、駅まで一緒に行ったが、私がする本の話しにもそっけない返事をするだけで、目も合わせず、めんどくさそうだった。

今から思えば、あのときチャコちゃんが着ていたのはお茶校の制服で、妙なあずき色のベレー帽とベルトがふとり気味の身体に浮いていた。

小学生時代ほど大柄に感じなかったから、成長はゆるやかに止まっていたのかもしれない。

 

彼女とは小学校が一緒だったが、一緒に卒業できなかった。

チャコちゃんは小六で転校したからなのだった。

クラスの女の子数人で、プレゼントなど持って糀谷の自宅に持っていってお別れ会のようなことをしたりしたが、チャコちゃんは引越さなかった。

チャコちゃんのお母さんはきりっとしたきれいなひとで、色が黒いでぶっとした娘とまったく似ていなかった。

チャコちゃんには上にお兄さんがふたりいて、当時(昭40)大森三中、日比谷、東大というコースを歩んでいた。

祖母が、私には母がなく祖母に育てられていた、あるとき、このひとと話す機会があり、そういう教育ママの教育方針に驚いて、父に話していたのを覚えている。

チャコちゃんの成績も、作文も群を抜いていたから、母親が娘の学習も読書もこまかく管理していたにちがいない。

私はチャコちゃんから「にあんちゃん」を教えられたし、このひとの読書感想文がどこかに載って、担任から読んでみろ、と本人がみんなの前で金賞を取った感想文を読まされたことがある。

目立つことがきらいで、ひとの前に立つこともめったになかったこの小学生は、低い早口で自分の文章を読み、読み終わっるとチャコちゃんと担任のあいだにかすかな沈黙の間が流れた。

教師が沈黙をひきとるように口をひらいた。

この担任は、清水といったが、どこの出身だったのか。

ときどき重い語尾がこもった。

 

五年生から新たな担任になったのは退職直前の教師で、このひとと保護者の間には衝突があり、チャコちゃんのお母さんは先頭で教師とやり合った。

その報復として、あろうことか教師の矛先が優等生のチャコちゃんに向けられたとき、この母は転校を決めたのだ。

当時、教育委員会などどのように機能していたのかわからないが、関係各課たずねたにちがいない。

 「おまえずいぶんおとなしいんだな、母親とちがって」

などと言った。

「母親は威勢がいいじゃないか」

など。

チャコちゃんは大きな身体を椅子にうずめ、顔を伏せた。

 

引っ越したはずのチャコちゃんに、試しに電話するといつも出るのだった。

引っ越し先の住所も、あたらしい電話番号も教えられなかった。

「もうすぐ越すから電話をしないでほしい」というのも母親に言えと言われて言ったことばだったかもしれない。

歯切れのわるさに、私のほうはなぜ?どうして?をくりかえしたにちがいない。

 

チャコちゃんと私はカナダを舞台とした少女向け読み物を読み、たびだび登場する「日曜学校」なるものに行ってみたくて、あちこちの教会を探して歩いたことがある。

そのときもチャコちゃんはベレー帽をかぶっていた。

糀谷近くにシオン教会というのがあったが、アンやエミリーの通う日曜学校のイメージとはちがうのでずいぶんがっかりした。

チャコちゃんは自分がよい、と思う教会の日曜学校へ行くようになり、私は行かなかった。

 

あのとき、教師がまちがっているから転校するのだ、と言うことはできなかったのだろうか。

同級生たちをだまして学校を変わるという方法しかなかったのだろうか。

友だちにほんとうのことを言ってはいけない、と言われて転校した小学6年生の気持ち。

いまなら、その重圧を理解できる。

なぜ、偶然バスのなかで会っても素直に喜び合うことができなきかったのか、も。

 

チャコちゃんは難関の女子大付属へ合格したのだから、転校がチャコちゃんの未来にとって有益だった、ということもできる。

そのまま母親の方針に従ってぐんぐん競争を勝ち抜き、いまごろ高明な医師とかになっているかもしれない。

あるいはどこかで造反し、まったく違う生き方をいている、かもしれない。

 でも、あの小6の事件は残念だった、と思う。

おとなが子どもに嘘をつかせる、そんなことはだめだろう。

ふたりの兄も、大森三中、日比谷、東大という路線を勝ち抜いたのか、勝ち抜いたとしてももはや定年後の人生を生きているはずである。

私にとって大森三中は、勉強のできる小学生の行く受験校の中学だった。

時代が進み、役所の同僚の息子が三中へ行くというので、有名な三中、と言うと、え、という顔をしてから、窓ガラスが一枚もなくて有名なんだよ、と笑った。

3.11

不安なきもちは、どうしてだろう、と思ったら3.11が近づいているからなのだ。

今日はテレビをつけない。

ラジオもFMクラシックのみ。

それでも午後のこの時間になって、どうしても苦しくなった。

過呼吸のような、過呼吸になるのが怖いような。

桜の木の下にお線香を立てる。

手を合わせ、3.11の犠牲となった方たちの鎮魂を祈り、3.11のときは生きていたのにもう亡くなった方たちのことを思う。

だいすきな東洋さん、私のかわいいザック。

 

今夜は友だちと映画を観に行く。

「Worker's被災地に起つ」

この友だちは、数年前の3.11身の置き所のない気持ちでいた私をコンサートに誘ってくれた。

その夜、本当にひとの声とひとといることのぬくもりをありがたいと思った。

こういうときは、ひとりでいない方がよい。

f:id:mazu-jirushii:20190311150818j:image

金満里

大雪情報の日、「ウリ・オモニ」の公演に行く。

朝から天気予報は過去の大雪の映像を流して、外出を避けるように警告しているし、前日長崎空港から羽田に戻ったばかりで疲労感が残っている。

夫は前夜ひどい咳をしていて、今日は一日休んでいるほうがよいのは確実だ。

しかしひとりで行く勇気はない。

友だちを誘ってみようか、と思うが、急な誘いになるし、劇団「態変」の舞踏を観たいと思うかどうかが問題だ。

たとえ「身障」者差別は悪だ、と思っていても金満里のアグレッシブな身体表現についてどう思うかわからない。

 

問題かもしれない、と思いながら寝ている娘を誘ってしまう。

娘は迷惑なのだ。

悪天候の日、一日だらだらしていたい。

母親と下北沢の劇場へ行く予定はしていない。

返事をしない。

「母親特権」を強制執行する。

(これを最後にしよう)

よいことをしていないことは知っているので、よけい乱暴になる。

はやく、はやく、行きたくないならいいよ、もう!

彼女がまだよちよち歩きのころからの常套句である。

開演時刻に間に合うかぎりぎりの時間になって家を出た。

予定していないことをすること、さっさと手早くやること、は両方とも娘にとって苦手なのだ。

 

いつもなら、いざとなったら逃げられる席にしたのではないか?

いつもなら、まっくらになったとき出られる席に座ったのではないか?

この日、スズナリのむりやり段差を作り客席を置いたようなぼろっちい劇場の真ん中に娘と座った。

ほどなくして開演すると、まっくらになる。

ほんとうの闇になってしまう、ドキドキしてきて、あれ?大丈夫?これってやばい?

と思っていると、今度は轟音が響いてくる。

前日帰ってきたばかりのヒロシマの消失とナガサキの死体の山がむっとこみあげてくる。

大丈夫、大丈夫、とどこか光りを探し、録画撮りしているカメラの赤い点滅に目をこらす。

闇と轟音にしつこく叩かれているとぼわっとやっと見える程度にライトが着いて舞台の上の肉体を映し出す。

金満里さんの白いレオタードに包まれた巨大な肉体は動かない。

なまなましく、おおきく、異様である。

ここで私はむり、と思って外に出ることにする。

となりの娘に、ちょっとおかしい外出る、と言うと、いいよ、出なよ、と言う。

そのとき、私が反対側にばたばたと動き、観客席の後ろを目指したのは、どこか座席の後ろには出口に出られるスペースがあるような気がしていたからなのだが、席はみっちり詰まっていてどこにも通路はない。

パニックになって何も見えない場所から逃げようしている自分は、見知らぬひとびとの手をつかみながら、どさどさと客席のひとの身体のなかをすすむ。

思わず手を振りほどこうとするひとは、ここからじゃでられませんよ、と言う。

小声で大丈夫ですか、と言ってくれるひとに、気分がわるくて、と小声で言うとスタッフに伝わって、スタッフの手につながったが、このひとも狭い劇場で足を踏み外して転びそうになり、観客席にさらにざわめきが起こる。

なんと迷惑な、最悪である。

舞台挨拶のようなことをしたきれいな女性に連れられて、やっとあかるいところに出ると、外にいるスタッフが呆然と立っている。

女性のつめたい指がわたしの脈をとって、ちょっとはやいですね、と言うのだが、どこかどうしてよいかわからないようであり、すみません、めいわくかけちゃって、と言う私に即時にとんでもありません、と答えが返ってくる。

スタッフたちは、立ちつくし、なんとなくこちらを見ているが、このひとたちもどうしてよいかわからない。

小さな電気ストーブをなにげなくこっちに向けてくれたり、天井から吊るされた白黒のモニターの角度をちょっと変えてくれたり、不器用そうなスタッフたち。

そこへけっこうな迫力で娘が出てくる。

どうしたの!

と大きな声である。

しっと言って、いつものパニック、と言うと

お母さん、そんなのあったの、と声を荒らげる、娘は知らなかったらしい。

スタッフはそれまでの距離をさらにすっと広げ、こちらを見ないようにしている。

娘はへんな黒い四角い帽子をかぶっていて、しろうとながらけっこうな存在感である。

怒っているのだ。

私に対する不満は朝起こされたときから始まっている。

いいよ、中入ってて、と、私に帰る気がないことを知ると不承不承もう一度スタッフに付き添われて中に入った。

f:id:mazu-jirushii:20190304060038j:image

 

 

 

ナガサキ

ナガサキは、娘と311のときに一泊した。

娘はひとりで資料館へ行き、私は資料館の喫茶店で待った。

ずいぶんたってから戻って来た娘がまっすぐな目をして、

おかあさん、すごいよ、ぜんぶきえちゃうんだよ、と言った。

 佐賀から長崎までの線からすばらしい海岸をずっとずっと見て、帰りも同じ線にのって佐賀に帰った。帰りの車内からふと見えた飲料水の看板の電話番号を覚えて、すぐに電話した。

東京の水道水にはセシウムが混入している、ということだった。

もうなんという会社だったか忘れてしまったが、水はあるが、ボトルの製造が間に合わないとのことだったが、ほどなくして送ってもらえることになった。

 

ナガサキの資料館にも、ヒロシマと同じタイプの模型があって、今回も遠巻きに模型をながめた。

模型そのものよりも、模型に見入るひとたちの表情、たたずまいに打たれた。

ふつうのひとたち、自分もふくめて、つよくもなく、当面はまっすぐ立っていられるが、なにかあれば簡単に倒れるひとたち。

とりあえず今いきているひとたち。

そういう残された人間たちが、消失の瞬間と荒廃の模型を取り囲んでいる図。

 

見覚えのある写真があった。

小さな妹をおぶって、男の子が気をつけの直立の姿勢でたっている写真。

やせた男の子のせなかにおぶいひもでくくりつけられたいもうとはぐっすりと眠っているようにみえる。

男の子はわらったような顔をしているが、ちがうのだ。

妹の眠っているのではなく死んでいるのだ。

かれは他の大勢の死体といっしょに妹を焼いてもらうためにそこまでおぶってきたのだった。

おとこたちが、おぶいひもをほどき、男の子の身体から妹をおろして灰の上に横たえると、兄はもういなくなっていた、とその写真である。

 

この写真集を画家のSさんの家で見て、わらってるの、と写真の意味もわからず言って、激しく怒られたことがある。

自分と違う反応をすると怒るひとで、私は恥ずかしかった。

f:id:mazu-jirushii:20190223153204j:image

 

原爆ドームとひろしま美術館

資料館のあと、目指すのはもちろん広島風お好み焼き。

夫がアイフォンでランクの高いお好み焼き店を探し、そこまで歩いていくと朝出発したばかりのホテルのすぐ近くであった。

狭い店内と、成功したオーナーにありがちの饒舌なひとり舞台のカウンターと二人席、奥には数人で座れる鉄板付きのテーブルがある。

私は、こういう男性のトークが苦手である。

お好み焼きを食べながら、あれ?

リュックがない・。

いつも私が背負うリュックを夫が背負ってホテルを出た。

だから夫にはなんとなく私の持ち物のような気がしたのだろう。

資料館のロッカーに入れっぱなしで出てしまった。

一度休憩に館内の喫茶店に入ったのも、なんとなく流れが変わってしまった理由。

いったん休もう、と喫茶店に入ったら、疲労感を感じてもうすこしだけ見たら帰ろう、ということになった。

そして入館時に預けた荷物のことを忘れてしまったのだ。

お好み焼きやさん、ふたたび資料館、原爆ドームからひろしま美術館へと歩いた。

原爆ドームを見たとき、ああ力は拮抗しているのだ、と感じた。

あのような史上類のない大殺戮が執行された、その痕跡を七十年間保ちこたえたのだ。

忘れないぞ、と決して許さないぞ、というメッセージを七十年間、ひとりひとりの力を結集してなまなましくそのままに存在している意味。

当局は邪魔だろう。

更地にして、なかったことにしたいだろう。

それを許さないで、破壊されたときのままに維持する力。

だから大丈夫なのだ、きっと。

闘っているのだから、勝つことはないにせよ抗っているのだ。

だから、大丈夫、と思った。

f:id:mazu-jirushii:20190223153026j:image