短編小説で泣かされてしまう。
アリス・マンローは、バララットに住むロレッタが勧めてくれた小説で、私は彼女から勧められた小説は必ず読む。
が、彼女の方は私が読んで感動した本の名前を書き留めはする、が、実際読んだという話を聞いたことがない。
そのことが不満で、私はどんなに感動してもロレッタから勧められた本について彼女には話さないと決めている。
ロレッタが良いと言ったアリス・マンローのノーベル賞受賞作「ディア・ライフ」の原文を夫がアマゾンで購入し、ついでにCDも買った。
CDを聞いてみても、ほとんど理解できない。
英語の勉強を全然しなくなって久しいので、年末ロレッタが日本にやってくるというが、きっとまったくしゃべれなくなっているだろう、と思う。
いざとなったら日本語でいいや、くらいの気持ちである。
なんだか、外国人と一生懸命付き合うことがいやになってきてもいる。
ばかばかしいや、という気持ち。
もちろん私自身のブロークンな英語力という問題はあるにしても、どのみち白人と日本人は大人と小人のようでしかなく、こちらが歩み寄っても向こうは歩み寄って来ない。
そういう白人としか出会ってこなかったということだろうが。
ならばスリランカ人やトルコ人はどうか、といえば、こちらは別な意味でまったく歩み寄って来ず、こちらも私の方が合わせなくてはならない。
全体にちょっといやになっている。
ロレッタが来て、ロレッタが帰った後、言葉はわりあい平気だったし、少し英語をする気になって、理解できないCDの原文を読んでみる。
「Voices」である。
CDは一巻から八巻まであり、たまたま取り出したのが八巻で、オレンジ色のドレスやアクセサリーの描写、「娼婦」ということば、アリス・マンローの母親という人の頑なな性格描写など、ほんの少しわかるところがありながら、ほとんど聞き取れない内容だ。
英語本を手に取り、電子辞書を使って読む構えで一ページからかかずりあっても、なんと理解できない!
中古本を買うことにした。
「声」日本語である。
昼寝するためにこの本を持ってベッドに入り、途中で眠ってしまう。
15分ほどで目覚め、下で娘が勉強しているので、そのまま短編の残りをベッドで読む。
母親の若い時分のスクエアー・ダンスパーティーのことから始まり、母親の違和感ある喋り方、地元で浮いていて、実家でも好かれてない。
彼女は別な人生を夢見ながら、農主の夫との生活を生きたひとである。
母と母に気に入られなかった自分、
母からは尊敬に値しないと思われていたらしい働き者の父、
学校、
教師、
教会、
上級生などが出てくる。
舞台は、十歳のときに母親に連れて行かれたダンスパーティーである。
ダンスパーティーが、大きな農家の家で行われていて、台所のテーブルには女たちの持ってきたお菓子が並んでいる。
母は、場の空気を乱すような言葉を吐きながら、自分の持ってきた菓子をいったんは置くのだが、その場に町の娼婦が来ていることに憤慨し、帰るからコートを持ってきなさい、と十歳の娘に命ずる。
娘はいま下りてきたばかりの階段を、また上っていかなくてはならない。
階段にはペギーという若い女が泣いていて、泣いているペギーをふたりの若い男性が慰めている。
その声である。
Voices、ふたりの声なのだ。
ここに焦点を当てるためにアリス・マンローは、自身の家族、母親のドレスと娼婦のドレスの色、身につけているアクセサリー、ふたりの女の装いの対比、十歳の自分が見ていた景色をみっちりと何重にも導入していくのである。
彼女の目は、ペギーというあまり魅力的でない若い女と彼女を囲む男性の空軍の制服から磨かれた皮靴にじっくりとズームされる。
この男の子たちは、スコットランドから特別訓練のためにカナダの地に派遣され、ドイツとの戦闘で命を落とそうとしている兵士たちである。
若い女に対する彼らの声のやさしさに十歳の少女は魅了され、いつまでもその声を思うことになる。
やさしい声にささやかれているのはいつのまにか自分になって、眠りに落ちるときゆりかごの揺らぎのように甘い。
確実に失われる兵士たちの命と、声の記憶に圧倒された。
書くことでこんなことができるのか、と思う。
ジュンパ・ラヒリというインド系アメリカ人女性の短編も私は大好きなのだが、ラヒリかにマンローへの賛辞がディア・ライフの帯に載っている。
「短編にはなんでもできるのだということを、わたしはマンローから教わった。」
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