昨年の6月に亡くなったひとからの手紙をようやく整理して、最後の手紙を読んでみると、私は勘違いをしていて、
手術前、と思い込んでいたが、
いま読んでみると、もう手術を終えて退院し、自宅から週に一度通院しながら治療をしているとある。
「副作用もあり、たいへんな日々です」
と書かれてある。
重篤な病と死に向かう心構えを書いた手紙である。
そうだ、体調がわるい、と誘いを断ってきた彼女に、思い切って電話をしたときの内容と手紙を混同していた。
あるいは、落ち着いて、手紙を読むことができなかったのかもしれない。
自分の次のリアクションばかり気になって、冷静に受け止めていなかったのかもしれない。
約束を破って私に知らせないまま死んでいったひと。
黙って死なない、約束だよ、という約束。
偶然の奄美だが、島尾敏雄の「死の棘」が映画化されたのを、トルコ時代パリに上がってレ・アールの小さな映画館で観た。
観客は老人ばかりで居眠りをしているひとが多く、こんな暗い日本映画を観に来たお年寄りたちの理由がわからない。
夫と私は、日本語で観れる日本の映画に飛びついたのだが。
原作は以前に読んでいたが、映画はいまひとつだった。
狂気のエゴとと健常のエゴ。
死に向かうひとのエゴと、生に向かうひとのエゴのせめぎ合い。
女と男のエゴのせめぎ合い。
いま観たらわからないが、そのときは観終わってくさくさした。
冬だったと想う。
暖かい映画館から出ると、かつての大市場レ・アールはものすごく冷え込んでいた。
よいのだ、私のエゴなんだから。
と、思う。
逆の立場だったら、私だってそうしただろう。
一年たって、彼女の死が、彼女の不在が違ったものに感じる。
自分のエゴや勘違い、思い込みで見えなかったものがわずか透けてきたようで、
ニセモノくさい、と批判的に見ていた彼女の夫婦関係。
最後まで、自分勝手に生きなかった。
樹木希林じゃないが、死ぬ時くらい勝手にさせてよ、というわけには行かなかったのだ。
最後まで。
あのひとが女じゃなかったら、と考える。
女じゃなかったら、あんな死に方をしないで済んだ、と私は思う。
女がきらいで、女に手厳しい女。
ベビーカーを押す若い母親、ダンナに赤ん坊を抱かせる女、赤ん坊を連れてカラオケに行く女、肌を露出した服を着てチカンに会う女、同級生のだれそれ。
いつもいつも母親の介護を愚痴るひと、石原に投票しないなんてバカ、と決めつけるひとに対する怒り。
私のことはなんて言ってたんだろう。
私の思い込んでいた彼女との関係こそニセモノくさい、と気付いたら、
もしかすると彼女の夫は、最後はちゃんと看取ってくれたかもしれない、と思えてくる。
だから、よい。
彼女が、もう苦しみのない世界にいて大丈夫なのだから、私も大丈夫と思う。