北浦和の老人ホームに入居する伯母を訪ねたのは、最初のぎくっをやる5日前。
このひととのあいだにときどき起こるのだが、往復の長い道のり、午後からは嵐の予報の日に、プレゼントを持って出かけ、行くんじゃなかった、と悔やむ。
私のことだから、まあいやなことはさっさと忘れて前向きに、とはならない。
じくじくじくじく気持ちを病む。
そして、いやな気持ちを解明しようと努める。
そんなことも、この腰に影響しているのだろう。
「なにかストレスありましたか?」
と野口の先生に言われるが、なんとも説明しづらい。
私の歪んだバイヤスのせい?、伯母のなんということはないひとことひとことが胸にささる?
あるいは、もう歩けなくなった伯母が、いいよ、と言うのに、
いざったり、腕の力で必死に身体を持ち上げて、あまり甘くないぶどうを冷蔵庫から出してくれたり、冷茶を作ってくれたり、浄水器を通してない水で作った消毒臭いお茶を、おいしい、と言わなくてはならなかったり。
自分が歩けないとき、這ったり、いざったりしていると、肉の削ぎ落ちた伯母の小さくなった身体を思い出して、これは転位かもしれない、と思ったりする。
面倒を見ていた長女がついにねをあげて、老人ホームへ入居することになった伯母は、上機嫌というわけではない。
さかんに長女のこと、次女のことを私に話す彼女のこころの奥はわからない。
まるで、伯父と死に別れたあと、しばらくひとりで暮らしていたころのような、切迫感がある。
ひとりでいることは、なんと無防備で、心細いことなのだろう。
ホームというところもなかなか孤独な所のようである。