男の作ったフィクションと、女の書いた日記。
「斜陽」は太宰がおんなの声で語った一人称の小説で、
「女生徒」「恥」「皮膚と心」などと同じく、女装した男性の野太い声のような、ときどき地声の混じるような奇妙なナレーションである。
一方の日記は、ひたすら母を慕い、敬い、死にゆく母の克明な記録である。
母の死後、作家を追いかけていくシーンは、太宰のフィクションで、日記のほうは母の死で終わっている。
母の死後、恋の革命に生きようと決めた女性は薄汚い座敷で酒盛りしている作家にようやく追いつく。
現在の中央線、荻窪に作家の自宅があり、くじけそうになりながら、妻子ある家に乗り込んでいくが、お目当の相手はそこには居ず、妻から教えられた荻窪のおでんやへ行
くが、そこにも居ない。
おでんやに教えられた阿佐ヶ谷まで、探したがそこも出たあとである。
とうとう西荻窪の酒屋で作家をみつける。
酒場のおかみさんから同情されてうどんの出前をご馳走になる。
華族出身の主人公が、飲み屋のおかみさんや酒場で働く女性たちとうどんをすするシーン。
冷たい風の吹く寒い夜のことである。
「生きていくというのは、こういうことなのか」とわびしく感じるのである。
このシーンは、いわば主人公と破滅的な作家との恋の成就の場面へとつながるので、小説のほうのクライマックスである。
そこで、作家(太宰)が、酒場の女の子に、自分を追いかけてきた主人公を泊まる家まで送って行かせようとして、いやおんなの夜道は物騒だな、おれが行こう、と
「履物を裏口にまわしてくれ」
などと、おかみさんに頼むところが、なかなかにせこい。
はじめっからその気なのだ。
一方、日記にもうどんが出てくる。
母親が亡くなる日。
東京から、叔父一家が車で駆けつける。
叔父のすきなきつねうどんを、主人公はせっせとこしらえるのだ。
「おじさまは、わたしの作ったおうどんを召し上がってる」
と母に告げると、
「わたしだけに見せる笑顔で」おかしそうに笑った、というのである。
結核の母親が、食欲を失い、弱っていくさま、嗅覚や視覚や失われていくさまを描く娘の心がさびしい。
二冊を読み比べるうちに、急にうどんが食べたくなって、濃いめの味付けでうどんを煮た。
ネギと卵を入れてたべた。