ひさしぶりに漫画をおもしろい!と思った。
ブレイク・スルーという番組で、ギランバレー症候群の女性が描いた漫画がブレイクしている、という。
はじまりで、列に並んだファンにサインする著者の画像が流れる。
ファンのひとりが、
もし自分だったら、こんなふうに病気と闘うなんてできない、とかなんとか言っている。
いつもの皮肉な考えがよぎる、
が、漫画の絵がサイバラのようでありながら、緻密な絵も混じっていて面白い。
なにより、この著者のなまりのあるあたたかな語り口。
東京弁のスマートな風間くんと向かい合って、やや緊張している。
会場にいる母ちゃんと父ちゃんがときどき映像に映るのも良い。
だれかが病いに倒れ、それまでの家庭が崩壊する、ということもあるだろう。
ただでさえ、豊かな経済状態でない家に、難病の家族が出たら。
むしろ逆のケースのほうが多いのではないだろうか。
それが、著者30代の働きざかりの娘の突然の病気によって、借金まみれの父が堅気にもどり、夫婦力を合わせて娘をなんとか助けよう、とする。
それも、すごいと思うが、
著者が、やっと腕を動かして描いた絵が、ひとりの車椅子の若者を捉えた、その光景を見て、絵を描こう、なにがあっても絵を描きたい、そのためにはなんでもやろう、と決めるところ。
そこがすごい。
ひとが、どっちへ行くか、どこで決まるのだろう、と思うときがある。
あのとき、あっちへ行ってもおかしくなかったなあ、と自分自身、胸をなでおろすことがある。
ふっとした拍子、なにかわからないけどもなんとなく、というようなもので、心の動きが決まったりする。
確実ななにかがあったわけではない。
なぜ、こんなことをしてしまったのか、とか。
自分でもよくわからないのだ、というような。
そんなこともある。
自分自身、過去を振り返って、あのときギリギリセーフだったな、と思うことがある。
すぐに漫画を買おう、とアマゾンで検索するが売り切れ。
紀伊国屋のネット販売でも在庫なし。
仕方なく、次作の「楽園タクシー」の上下を買うことにして、
あちこちの書店に電話をし、横浜の有隣堂にあったので、送ってもらうことにした。
ので、紀伊国屋のほうはキャンセルしたが、なかなかキャンセルできず、ダブったら、それはそれでだれかにあげようと思っていると、今回はキャンセル承ります。
とメールが来た。
昔、岡崎京子の新刊が買えず、いまのようにネットの書籍販売などない、渋谷の紀伊国屋で予約をして帰って来たら、地元の本屋に在庫があり、即購入。
渋谷にキャンセルの電話を入れたら、不機嫌でキャンセルの理由を述べよ、と言われたことがある。
書店のほうでは買取とかなのかもしれない。
娘が生まれたばかりで、実家のあるマンションの一室に住んでいたころ。
弟が部屋に来て、早速手に入れた岡崎の漫画を読みながら、私の話を聞いていたっけ。
理由いえって、他の本屋にあったから買った、じゃすまないらしいよ、
と言うと、すごかおかしいときに見せる顔をした。
おかしいというより、驚いた、ところでいうような、ふがふが声を出さずに笑いながら、漫画から顔をあげなかった。