友だちと約束して、会い、ランチとお茶をすると12時前に待ち合わせをしても、別れるのは夕方だった。

同じ店に家族と行っても、あっというまに食事が終わり、お茶もさっさと飲み終わってしまうのに、彼女と一緒だといつまでもいつまでも話しが尽きない。

当時は、犬が二頭いて夕飯を待っているから、腕時計を見てそろそろ、と立ち上がるのはわたしであった。

同級生どうしの話しから、中高時代の思い出や、それぞれの抱えるなやみ、互いに文芸部だったので本の話しもして、濃い時間になり、分かれた翌日くらいには間髪いれず手紙が届いたものだ。

 

ただ、話しが政治に及ぶと、いっきに反動的な色をつよめた。

人種差別はいけない、という良識は当然あるはずのひとだったが、日本の未来を憂う彼女は、一定の外国人がこの国に入り込んできている、と声をつよめた。

メディアにも、政治にも侵入して画策している、と妄想のようなこという。

当然自分以外のだれもが同じ意見のはずだ、というスタンスで、だれだってわかってるよ、と言ったあと、

「ねえ」

と相槌をもとめた。

この「ねえ」は、よくおばさんたちがあまり自信のないことを言うとき、たびひたび出る「ねえ」である。

当然と思っているが、その証明ができないため「ねえ」と相槌をもとめるのだ。

 

いつからか会うたびに、目を釣り上げて外国人を叩き、国を憂う彼女をみるのがいやになった。

熱のこもった怒りの感情がどこからうまれてくるのか理解できなかった。

裕福な家に嫁ぎ、自分では決して生活にこまらない身分のひとが、生保受給者をたたく怒りが理解できない。

一方で、夜中のバスに揺られて震災の炊き出しに行ったり、病気の子どもたちへのボランティアに自から出資して行ったりもしていた。

 

わたしには、ばらばらにみえる、困ったひとたちを助ける活動と、日本にいる一定の外国人を叩き、生保受給者はなまけものの不正受給者、と怒りで顔を青くする彼女は、自身に矛盾はなかったのだろう。

根っこは「憂い」なのか。

 

カロリン・エムケの「憎しみに抗って」という本を読んで、やっと納得ができた。

もちろん、友だちはヘイト・スピーチに参加して声をあげるようなことはなかったろうから、違う話しだ、といえば違う話しなのだが。

憎しみの感情のメカニズムがわかりやすく、そしてたいへん悲惨に紐解かれている。

 

「人種差別に走りやすいひとは、否定的な体験を通して自己形成しているひと。

制約や障害が多い環境のなかで、受け身で適応していかざるを得なかった無力感があるひと」

 

彼女が幼少期から女の子だから、という理由で毎朝玄関掃除をさせられていた、と聞いたのは、いつだったか。

子ども心に、なぜ自分には日曜日がないのだろう、と思ってたよ、と悲しそうな目で言った。

若くして恋愛をして、地域の資産家に嫁いだ。

結婚に、母親は反対だった、という。

長男の嫁として、大姑、舅、姑を看取り、子育てをし、大家族の食卓、月に一度の会合の食卓を担ってきた。

あるとき、月に一度家を訪れるお坊さんが、彼女の歩き方を見て、お嫁さんをこんなふうに扱ってはいけない、と舅に言ってくれた、と言う。

廊下をまっすぐ歩けなくなっていた、と。

家の外に初めて出かけたのは、長男の幼稚園の保護者会だった、と。

お盆や正月は、舅姑の過ごす伊豆の別荘での掃除とまかない。

奴隷じゃん、と思った。

 

女であることで、ここまで使われるのか、と空恐ろしいような話である。

これもまたドメスティック・バイオレンスの一形態ではないか。

私はすきでやってるの、と言ったとしても、

彼女の家事自慢、料理自慢はさりげなく語られるものだったが、

 

彼女が家を出て、隷属状態から自分を解放させることができたのか?

できなかったのだ。

 

怒りはさまざまなものに放射された。

ベビーカーで外出するママがにくい。

夫に子どもをだっこさせて、手ぶらで歩くママがにくい、

外国籍のひとたちがにくい、

生保対象者がにくい、

 

怒りと憎しみは、対象を選ばない、とエムケは書く。

それがユダヤ人であれ、黒人であれ、同性愛者であれ、歴史は時代ごとに対象を変えてきた。

その社会で弱者として目立つものであれば、いつだって選択されうるのだ。

 

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