こんなとき、パパがいたらなぁ、という思いがためいきのようにわいてくる。
感情を昂ぶらせ、荒らげ、根にもってじくじくとうらみ、そんないりくんだ親子関係だったが、どん底のときに頼るのは父だった。
スリランカ在住のころ、雇われていた日本企業に倒産の噂がたち、自分たち家族が寄って立つところは、実のところその企業であり、
そこが倒れると、事務所も家も、現地スタッフも、家のなかで立ち働いてくれている現地の雇われさんも、みんな失うことになる、という恐怖、
昨日まで「マダム」と呼ばれていた立場がうしなわれ、ひょっとすると逆転するかもしけない。
果たして、倒産した会社がどこまで派遣された社員の面倒を見てくれるのか、怪しいものである。
日本に一時帰国し、名古屋から東京デズニー・ランドにあそびにきていたコロンボ時代の友人親子と一緒に父からランチをご馳走してもらったことがあった。
遊びまわるなかよしの娘たちに焼肉をジュージュー焼いてくれて、
「ほら、たべろ、すきなだけたべろ」
と言う父に、
「ねえ、大丈夫かしら、会社が倒産したらどうなるの?」
と、不安をもらすと、うすわらいして
「大丈夫」
と言う。
「どうして?倒れるかもしれないって、言ってるよ」
「大丈夫!」
とうすわらいのまま確信をもって、言う父であった。
結局会社はなんとか持ち直して、少なくともいまもって倒産はしていない。
「だからいったろ」
オレの言ったとおりだろ、と生きていれば、父は言っただろう。
あとになって、名古屋の友人から、
ほんとうにうらやましい、と言われた。
「あんなふうに、自分の不安をお父さんに言えるなんて」
と。
父は、残念ながら関係が最悪で、法事で会ってもろくに口も効かない、というころ倒れ、意識不明のまま亡くなったので、
「昏睡状態の人と対話する」
というアーノルド・ミンデルのプロセス・ワークの方法で、13ヶ月のあいだ対話を繰り返したが、それはもう証明のしようがない。
父とわたしがコミュニケーションできていたのか。
たとえ、わたしに確信があっても。
証明できる範囲では、親子断絶した状態で倒れた、というところまでだ。
いまだ憎々しく思い出すこともあるし、ふっとあたたかい思い出に浸ることもあり、感情の対極ははなればなれ、歩み寄ることはない。
でも、こんなふうに帰路に立たされたとき、父が生きていたら、頼っていただろうな、と思う。