大雪情報の日、「ウリ・オモニ」の公演に行く。
朝から天気予報は過去の大雪の映像を流して、外出を避けるように警告しているし、前日長崎空港から羽田に戻ったばかりで疲労感が残っている。
夫は前夜ひどい咳をしていて、今日は一日休んでいるほうがよいのは確実だ。
しかしひとりで行く勇気はない。
友だちを誘ってみようか、と思うが、急な誘いになるし、劇団「態変」の舞踏を観たいと思うかどうかが問題だ。
たとえ「身障」者差別は悪だ、と思っていても金満里のアグレッシブな身体表現についてどう思うかわからない。
問題かもしれない、と思いながら寝ている娘を誘ってしまう。
娘は迷惑なのだ。
悪天候の日、一日だらだらしていたい。
母親と下北沢の劇場へ行く予定はしていない。
返事をしない。
「母親特権」を強制執行する。
(これを最後にしよう)
よいことをしていないことは知っているので、よけい乱暴になる。
はやく、はやく、行きたくないならいいよ、もう!
彼女がまだよちよち歩きのころからの常套句である。
開演時刻に間に合うかぎりぎりの時間になって家を出た。
予定していないことをすること、さっさと手早くやること、は両方とも娘にとって苦手なのだ。
いつもなら、いざとなったら逃げられる席にしたのではないか?
いつもなら、まっくらになったとき出られる席に座ったのではないか?
この日、スズナリのむりやり段差を作り客席を置いたようなぼろっちい劇場の真ん中に娘と座った。
ほどなくして開演すると、まっくらになる。
ほんとうの闇になってしまう、ドキドキしてきて、あれ?大丈夫?これってやばい?
と思っていると、今度は轟音が響いてくる。
前日帰ってきたばかりのヒロシマの消失とナガサキの死体の山がむっとこみあげてくる。
大丈夫、大丈夫、とどこか光りを探し、録画撮りしているカメラの赤い点滅に目をこらす。
闇と轟音にしつこく叩かれているとぼわっとやっと見える程度にライトが着いて舞台の上の肉体を映し出す。
金満里さんの白いレオタードに包まれた巨大な肉体は動かない。
なまなましく、おおきく、異様である。
ここで私はむり、と思って外に出ることにする。
となりの娘に、ちょっとおかしい外出る、と言うと、いいよ、出なよ、と言う。
そのとき、私が反対側にばたばたと動き、観客席の後ろを目指したのは、どこか座席の後ろには出口に出られるスペースがあるような気がしていたからなのだが、席はみっちり詰まっていてどこにも通路はない。
パニックになって何も見えない場所から逃げようしている自分は、見知らぬひとびとの手をつかみながら、どさどさと客席のひとの身体のなかをすすむ。
思わず手を振りほどこうとするひとは、ここからじゃでられませんよ、と言う。
小声で大丈夫ですか、と言ってくれるひとに、気分がわるくて、と小声で言うとスタッフに伝わって、スタッフの手につながったが、このひとも狭い劇場で足を踏み外して転びそうになり、観客席にさらにざわめきが起こる。
なんと迷惑な、最悪である。
舞台挨拶のようなことをしたきれいな女性に連れられて、やっとあかるいところに出ると、外にいるスタッフが呆然と立っている。
女性のつめたい指がわたしの脈をとって、ちょっとはやいですね、と言うのだが、どこかどうしてよいかわからないようであり、すみません、めいわくかけちゃって、と言う私に即時にとんでもありません、と答えが返ってくる。
スタッフたちは、立ちつくし、なんとなくこちらを見ているが、このひとたちもどうしてよいかわからない。
小さな電気ストーブをなにげなくこっちに向けてくれたり、天井から吊るされた白黒のモニターの角度をちょっと変えてくれたり、不器用そうなスタッフたち。
そこへけっこうな迫力で娘が出てくる。
どうしたの!
と大きな声である。
しっと言って、いつものパニック、と言うと
お母さん、そんなのあったの、と声を荒らげる、娘は知らなかったらしい。
スタッフはそれまでの距離をさらにすっと広げ、こちらを見ないようにしている。
娘はへんな黒い四角い帽子をかぶっていて、しろうとながらけっこうな存在感である。
怒っているのだ。
私に対する不満は朝起こされたときから始まっている。
いいよ、中入ってて、と、私に帰る気がないことを知ると不承不承もう一度スタッフに付き添われて中に入った。