本の世界にのめりこむ快感。
図書館で川端の全集を取り寄せて読む。
「十六歳の日記」
「油」
「葬式の名人」
と続く初期の作品は、川端少年の喪失をなまなましく描き出している。
父と母、そして姉、祖母、同居していた祖父すべて失ってから親族を転々としなくてはならなくなった身の上を「不幸」と言い切る屈折。
驚いたのは「油」。
「なぜ油を使って調理した食物を食べると吐くのか、油染み一点つくと着物が気味悪くなって着れなくなるのか?」
わからなかったが、あるとき伯母から聞いた話しで合点がいった。
二・三歳児だった川端が父の葬儀のろうそくを全て折り、泣き騒いで手がつけられなかったはなし。
母親がその様子におろおろと手を焼いた。
ろうそくを捨てても子どもの逆上はおさまらず、灯明のともした瓦の油を全て庭に捨てた、という。
父の死が、喪失が油の臭いとして幼い子どものこころに焼き付いてしまったのだ。
作家はこの話しを伯母から聞いて、初めて自身の油アレルギーと幼児時期の喪失体験のつながりが腑に落ちた。
そうしたらすっとアレルギーが消えて、油を使った食べ物を食べてみようか、と思い、食べてみたら食べることができたのだ、と。
精神分析はすでにあったろうし、睡眠障害をなんとかしたい、とあるときから精神科の医師とも交流を持っていた。
しかし、偶然伯母から聞いた親の葬儀の際のできごとと、身体症状とのつながりが意識でき、するすると「出来事と出来事の対話が始まったようで、すがすがしかった」と書く作家。
ユングのセオリー通りに、深層心理のシャドウがどのようにはたらき、どのようにはたらきを止めるか、1+1の話しにちょっと感動する。
こころとからだの作用に感動する。
そして、油をなべから拭き取り、仏前に灯明を灯さなかった祖父母の心づかいを理解すると、悲しくなった、と。
この大作家の最後は自死だった。
三島のあと。
川端はそもそも、ずっとずっと虚無を抱え込んで生きてたひとなのだ、と思う。
「伊豆の踊り子」も「雪国」も、底に流れているのは喪失と行き所のないものの完全に孤独な視点だ。