広島が映っている。
終戦記念日で、太平洋戦争のドキュメントが多い。
二月に訪れた広島。
生涯広島を描き続けた画家四國五郎という画家の映像。
敗戦後シベリアに三年間抑留され、帰ってきみたら弟が亡くなっていた。
兵隊に取られ死ぬところだった自分が生き延び、弟は原爆の犠牲となって橋の上で亡骸が見つかった。
以来、広島の橋を描き続けている。
橋が弟の墓標のようだ、と。
広島にはまた行きたい、と思う。
画家のまっすぐな目と弟を思うきもちがつらくて泣いていると、目の前のアイフォンがぐーぐーマナー音。
伯母からだった。
伯母と呼んでいるが彼女は祖母の一番下の妹であり、実は大伯母である。
声がへんだったのだろう、何度か名前を呼ばれる。
終戦の日でもあり、お盆でもある。
ふたりで、父のことや祖父のこと、曽祖父のことを話す。
昭和16年の4月30日に伯母は私の祖父の紹介で結婚した。
結婚相手は、その年の12月24日にルソン島で戦死。
太平洋戦争の入り口である。
真珠湾攻撃が12月8日だ。
戦死したことも知らされなかった。
実家に戻っていた伯母は、友だちからあなたのご主人が亡くなったと新聞に出ているわよ、と言われて知ったそうだ。
その話しはくりかえし聞いてきたが、この前7月の電話で、戦死した夫の葬儀が和歌山で行われ、その後、合同葬が京都で行われたこと、
和歌山から電車で京都へ向かう途中、停車駅ごとに人が集まってきてお辞儀をしてくれたこと、
父親(私の曽祖父)に付き添われた伯母は、駅ごとに立ち上がってお辞儀を返したのだ、と。
そのとき、いっぺんにこれまで感じたことのない悲しみがうまれてきた。
どれほど悲しくてつらかったろう。
どれほどの喪失であったことか。
これまでとおりいっぺんに話しを聞いていた、というつもりもないのだが、こんなふうに気持ちに迫ってきたことはなかった。
伯母は、そのときの電話以来、どんどん昔のことが思い出されてきた、あなたのおかげ、と言ってくれた。
あれはいつだっけ、とか、どっちが先の出来事だったかなど、だれだれに聞けばわかるのにね、死んじゃったからもう聞けないね、などと話していると、あーあ、みんな生きてたらなあ、いっぱい話しができたのにね、と二人で涙っぽくなる。
電話を切ったあと、ネットでいろいろ調べてみると、なんと戦死した夫の名前がネット上に出てくる。
昭和12年に彼が卒業文集に書いた作文をネット上で見ることができるのだ。
初めは、カタカナで文語調の読みにくい文で、ちょっとこれムリかも、と思ったが、読んでいるうちに、内容がわかってきた。
「清々しい夏の朝、弟がお兄さん、朝顔を見てください、と嬉しそうに言うので、手ぬぐいを片手に庭に出てみると細い竹につるを巻きつけてすくすくと伸びる朝顔。
弟が丹精込めて育てた朝顔である。
きれいだね、と言うと、弟は鼻高々にこれまでの苦労を話し出す。その声の愛らしいこと。」
というもので、それから、自然の力や生命の力などの賛歌が語られるのだが、およそ軍人らしからぬ内容である。
伯母は、兄が戦死すると、嫁がそのまま弟の妻になる、というような風習が適用されそうな空気もあり、驚愕して大森の実家に戻ったのだが、夫の弟は繊細なひとで、何度か手紙をくれたのだ、と言っていた。
さっそく1941年に死に別れた夫の、若い頃の文章をコピーして老人ホームに郵送する。
体調の良し悪しで目が見えなくなる伯母の目に、この文章が読めると良いのだが。
お盆休みの最終日なので、奮発して有料のアマゾン・プライム「ゴッホ最期の手紙」を観る。
これは、ゴッホの絵画のタッチをアニメーションにして、ゴッホが死んだあと、彼の絵のモデルたちが死の真相を追求する、という変わった映画で、でも、渦巻きの夜空とか、ぐるぐる巻きの木々など、ゴッホの目にはこんなふうに景色が見えていたのかもしれない、と思ったりした。
ヴィンセントと弟テオの絆の深さといったらない、と思う。
これもまた、兄と弟のストーリーである。