住まなかった家  フラワー・ロード

禁足状態にやることといえば整理整頓しかない。

溜まりに溜まった写真、手紙、メールを整理して、子どもが生まれてからの簡易アルバム十何冊を一冊のアルバムにまとめた。

探していたスリランカのフラワー・ロードの家の庭に映る知り合いの息子とまだ5歳の娘の写真が出てきた。

これでようやく書いておいた文章と写真が合体する。

絵と文がそろったらブログに上げようと思って20年が経ったということになる。

ところが、整理が終わると写真がまた見えなくなった。

夫とふたりで作業するため、意思疎通がうまくなくて取っておくものと捨てるものが逆になったりしてたので、捨てるもののなかに紛れたのかもしれない。

この際、文章だけでもブログに載せておこう。

 

 

住まなかった家 39/4フラワーロード     1998年5月

 

連休明けに、カメラに入っていたフィルムを現像してみると、休み中洗足池で撮った写真の中にフラワーロードの家の庭で撮った写真が入っていた。

テラスの花だなから南国の花が咲き乱れていて、

花びらの散った掃除のされていない芝生にケイと、ケイに寄り添う娘。

強い光線が真上からふりかかりケイも娘も白く見える。

なんと遠くに引き離されてしまったことか、喪失感にくらくらと目が回りそう。

住むはずだった家。

テッサという大きな犬。

しつらえた家具とカーテン。

中庭と庭に面した書斎。

書斎で展開されるはずだった「仕事」と、子どもたちを集めてのお話し会。

南国の熱気。

台所、サーバントルーム、前住者のドイツ人が使っていた緑色に塗られた木の食器棚。

大家の屋根についた二機の巨大なパラボラ・アンテナ。

二階のテラスにも土が盛られ、花壇がしつらえてあった。

テッサが階段を駈けのぼってテラスに出てしまい、足に泥が付いて、二階が泥だらけになった。

肥満したゴールデンリトリバーが階段を這うように駈けのぼる格好がおかしくて娘とまりちゃんは笑い転げた。

ようやく決まった家に何度も行ったのはこれから無事にスリランカで暮らせるようにという祈りをこめてだった。

娘と一緒に新一年生になるまりちゃんを連れて、ペレラさんとも、ダルリやマリカとも出かけた。

わたしには「先行きのことを期待して準備をすると実現しない」

という迷信があって、いつもはそんな準備をしない。

そのとき、気持ちに前向きの変化があって一番楽しいのは新しい生活に空想を膨らませて準備するときじゃないか、それをしないのはもったいない、とむりやり切り替えた。

 

そして、従来の迷信が当たって、ランドセルを買いに帰国したまま急遽スリランカに帰れないことになった。

一時帰国が、本帰国になった。

フラワー・ロードの家の計画は水のあわ。

契約は解除され、カーテンも家具も大家が返してきた、とローカルのスタッフから連絡があった。

まりちゃんと行くはずだった日本人学校の入学を延期し、とりあえず近所の公立小へ通うことにした。

まりちゃんのお母さんが作ってくれていた入学式に着ていくはずのおそろいのワンピースはどうしたろう。

ダルリは失業してしまった。

  ケイがMADURAIという南インドから送ってきた手紙がコロンボから日本に返送されてきた。

宛名は<39/4Flower Road>。

 私たち二人がコロンボを出発する三日前、兵役の前にスリランカからインドへ渡り、世界一周の旅を決め、パリから来ていた知り合いの息子ケイがマドラスへ出発した。

当時、フランスでは二十四歳までに国籍を決めなくてはならず、フランス国籍を選ぶと徴兵があった。

その日、ヒルトンタワーの26階の部屋で、これからしばらくインドで耐乏生活をすることになるケイに冷凍のウナギでウナ丼を作り、ケイは早い昼ごはんをぺろっと平らげた。

食べ終わったどんぶりと箸をきちんと洗ってキッチンに置いたケイと私は指定の時間に来てくれたジャシンハの運転する車で空港へ向かった。

コロンボの午後はだるく身体が重い。

空港への道はひと月前に誤爆したばかりで、避けていた。

人がたくさん死んだ道を通り、旅から旅への生活の本格的な始まりを意識して緊張しているケイと私は車中で夢中でおしゃべりをしていた。

昼時で道が混んでいた。

子どものころから親の友だちの日本人に囲まれて育った彼は、こちらの話しに相槌をうつのがうまかった。

私の話しは次から次へと続き、彼は辛抱強くつきあった。

 

空港へ入ると、身体を少し硬くした彼が「おせわになりました」とちょっとなまって言い、日本人どうしのような挨拶をして、最初のゲートに入ろうとすると、チケットを見た職員があっちへ行け、と後ろを指して言う。

ケイが戻ってきて、顔を赤くしてインドがきらいだから?とジョークを言う。

遠い方のゲートへ行くとあっさり通された。

ケイがゲートに消え、私は一人でコロンボ市内に帰るととても疲れ、頭が痛く、その日の予定をキャンセルして家に居た。

 

あの日、娘はなにをしていたのだろう?

三月十六日の月曜日のこと。

愛ちゃんの家だったのだろうか。

あの日は日本人の奥さんの送別会がヒルトンホテルのプールサイドであったはずだった。

幹事は愛ちゃんの母だった。

愛ちゃんと娘は一緒に居たのだろうか。

私がキャンセルしたのはどの家だったか、忘れてしまった。

 

洗足池のベンチになみちゃんと並んで腰掛ける娘は、運動靴を履いてすっかり日本の小学生のようにみえる。

数週間前までコロンボに居て、フラワー・ロードの新しい家に移り、その家から日本人学校へ行くことを疑っていなかったのに。

「子どもだからすぐに慣れるさ」と楽観する祖父の見立てははずれ、彼女の学校生活が安定を見せたのは、高校一年。

かれこれ九年間を要したことになる。