日本映画チャンネルで「沈没家族」が放映されている。
録画しようと思っていたが「沈没家族」という題からして、D Vや虐待などのおそろしい家族のリアルなドキュメントかもしれない、と迷っていた。
想田和弘監督のドキュメントにますます深くはまっていて、ほとんどBGMのように音楽を使わない相田作品を日々流し続けているのだ。
映画のシーンは、中央線のどこかの共同保育所が舞台のようだ。
昔、中央線沿線にあった共同保育所でバイトをした経験があり、あれ、もしかしてあそこ?
とぐっと身を乗り出す。
実際には私のほうが十年ほど時代が前で、ここに映るのは「共同保育所」というのともちがうらしい。
観ながら、ネットの情報をさぐると、加納穂子さんという女性が、生後8ヶ月の息子の保育人を募集し、そのひとたちと共同生活をするという話しのようだ。
私の第一本能は、この女性に対する(反感)である。
どこからくる反感か、
自分で産んだ子どもの世話を募集しちゃうの?
募集のチラシは手書きで、このドキュメント映画を製作することになる息子の写真がコピーされている。
1994年のことだ。
この女性は、子どもの父であるパートナーとの関係が破綻していたので、シングルで子育てをすることにしたが、自分の両親には頼らず、とある。
彼女の母親というのは、有名な女性史家で、この映画を上野千鶴子センセイが絶賛しているのは、女性史家への評価の反映ではないのか。
こんなふうに、多くのおとなに囲まれて育ったこどもも育っていく。
ひとり親家庭の子だって育っていくし、祖父母に育てられたとしても子は育っていく。
彼の父親が言うとおり、子どもは自ら育っていく存在なのだ。
すごいと思うのは、この女性の他人を巻き込む力である。
他人を巻き込み、そのなかで生きることを楽しむ力だ。
こういうふうに言い換えることもできるこもしれない。
他人を巻き込まなくては生きられない。
他人に囲まれ続けなくては生きられない。
だとしても、その環境を自ら作り出し、そのなかで堂々生き続けることのできる能力には脱帽する。
こころからうらやましい。
ただ気になるのは、この母親が息子する会話のパターンだ。
例えば、生後8ヶ月まで父親と三人でくらした場所をふたりで訪れ、おそらく鶴岡八幡宮あたりで、地面に座ってちくわを食べる母にカメラを向けながら、息子は
「江ノ島あたり行ってみますか」
と言う。
母親は、さっとちくわに目を落とす。
「江ノ島行きますか」
もう一度息子が言うと。
「いや行きたいというわけでもないけど」
「うーん、私はどちらかといえば逗子がいいな」
と言う。
いやだな、と思う。
息子が江ノ島に行きたいから、江ノ島に行きますか、と言っているのに。
「私は江ノ島は行きたくない、逗子に行きたい」
とまっすぐ言わないあたり。
相手が言っていることをわかっているのに。
ふたりの(家族)についての会話。
「テレビとかで見る家族のイメージとあまりにも違うな、と」
「なんだ、そんなのそれぞれあるんだから、テレビに振り回されすぎじゃない」
「そこにくっついている家族のイメージと違う」
「自分の家族はこうだ、といえばいいじゃない」
彼女は、息子の言いたいことが理解できずに、こんな対応をしているのではない。
はぐらかしているのだ。
息子は言う。
自分たち親子は「親として親だからとかじゃない。親と子じゃなくて、人間と人間として共同でくらしていく、というイメージ。家族というイメージではないんだ」
人間と人間としてって。
イリイチ教授なら言うだろう。
わたしは人間というものを見たことがありません、と。
(人間)が出たら要注意、と言ったのはどの心理学者だったか。