父の飲み友だちの鶴見せんせいは、家庭教師で生業をたてていたが、あるとき小さな塾を経営するようになった。
町工事のドブ臭いような飲み屋に集まる鶴見せんせいと父との関係はよくなったり、わるくなったり、くり返してきた。
いちど、せんせいが金を借りに来たことがあった。
大柄で、顔の四角い先生は、いつも石鹸くさい白シャツを着て、ベルトをしめたズボンをはいていた。
先生があつかましいような顔付きでぬっと玄関に入ってくると、父が金を貸す側でなく、借りに来たひとのようにへいこらして先生に一万円札を手渡し、養母に命じられたとおり、これっきりにしてください、と言って気弱に笑った。
それからしばらくは付き合わなかった。
そのうちに、せんせいが見合いをして結婚することになった。
せんせいは、もう五十を超えていた。
相手の女性は、長年町工場で経理を勤めていた小柄な働きもので、朝日新聞の投書マニアという一面もあった。
鶴見せんせいは、過激な玄米菜食主義者であり、せんせいに影響された父も「肉食の思想」などにかぶれて、圧力釜を買い込んで玄米を炊いて食べたりしていた。
すぐに飽きてしまうのだが。
鶴見せんせいの結婚相手の女性は、せんせいに感化されてより純粋な、玄米菜食主義の原理主義者となった。
当時(1970年)の、日本マクロビオティック「正食協会」はおっかない玄米菜食主義集団で天皇主義を標榜していた。
協会は「正食」という機関紙を発行していた。
よく覚えているのは、私がその冊子を借りたまま紛失し、買って返すように奥さんからやんわり言われ、バックナンバーを郵送してらうため何度か協会とやりとりしたからだ。
私は不適切ではあったが、正面から言われれば理解できた。
奥さんは、しっかりしていて感じのよいひとだった。
せんせいが酒を飲みすぎることに気を揉んでいたが、遊びに行くと、酒のつまみに玄米菜食のいろいろな料理を作ってご馳走してくれた。
おくさんが考案したパン作りがやっと成功しても、せんせいがぜんぶご近所に配ってしまうのだ、と困るが半分、ひとがいいでしょ、とせんせいを示す目が自慢げでもあった。
一度、山登りの帰りのご夫婦にどこかの駅で偶然会ったことがあった。
奥さんは、うれしそうに「あら!」と笑顔を見せてくれた。
休日になると呑んでばかりいるから、山に連れ出した、と言う奥さんの後ろでせんせいはこっそりふところから日本酒の小瓶をのぞかせて、いたずらそうに笑った。瓶は、ジャケットの内ポケットやズボンのあちこちに隠れていた。
せんせいには、片腕がなかった。
ある方の腕には、指が三本しかなく、ペンのキャップをはずすときは、口にくわえてはずすのだった。
鶴見せんせいと奥さんがあのままふたりだけの生活を続けていたら、いまもふたりでおじいさんとおばあさんになって、元気に山歩きなどして暮らしていたにちがいない、と私には思える。
親になることで、自分も子も不幸になる、ということがあるように思える。
待望の子ができたとき、奥さんに母乳がでなかった。
正食協会の考えからいうとありえないこと、あってはならないことであった。
奥さんは動物性の人工乳を拒否して、玄米の粉を溶いたものなど赤ん坊に与えていた。
その結果かどうかわからないが、ほどなくして子どもが死んでしまった。
ふたりが険悪になり、奥さんは、自分の乳が出なかったのはせんせいが毎晩飲み歩いて、だれかかれか家に連れてきたせいだ、と非難した。
それを聞いたせんせいは、べつのことを言った。
冷静な口調だった。
しばらくしてまた子どもができた。
今度は無事に育った。
その子が母乳で育ったのか、人工乳で育ったのかは聞いていない。
私はふたりに仲人をしてもらって結婚したひとと別れ、いまの夫と結婚して新しい生活をしていた。
もうあまり込み入ったことを話す関係ではなくなっていた。
あるとき奥さんが、隣りの商店街に喫茶店を出した、という意外な話しを聞いた。
正食に凝り固まっていた奥さんが、邪食であるコーヒーを提供するのだろうか?
私のなかには、工場地帯の小さな喫茶店のイメージがいまもありありと目に浮かぶ。
細い階段を登ってガラスの嵌め込まれた白い格子の扉を開くと、扉に着いたティンカーベルがチリリンと鳴る。
見たことのない喫茶店が私にはみえるのである。
そのうち、その喫茶店がチンピラの溜まり場になって困っている、という話しを聞くことになる。
小さな喫茶店にたむろして、奥の席を占領するあぶない若者たちの姿も、私にはみえる。
そして、せんせいと奥さんの大切な子が喫茶店に集うチンピラに関わり合うようになって、不良仲間に引き摺り込まれてしまった、という信じがたい話しを聞くことになった。
これは養母だけでなく、父からも聞いた。
養母がおもしろいことを話すようにまくしたてるのとはべつに、父は口が重かったが。
あるとき、奥さんが急死した。
私は花を送った。
せんせいから電話がかかってきて、なにもかもあっちにまかしてあったから、なにがどこにあるかも、なんにもわからない、なにからなにまでやらせてきたせから、と困り果てていた。
子どもを取り返しに行って、チンビラに殺されたのだ、と養母が作り話のようなことを言った。
「そうや、そうに決まってる」
ほんとう?と父に聞くと、しらない、と父は言った。
数年後、せんせいも亡くなった。
交通事故だった。
酔っていたにちがいない。
たまたま実家に電話をしたら、父が葬式に出かけていて、だれのお葬式?と聞くと鶴見せんせいよ、と養母が当たり前だ、というように言った。
せんせいが塾をしていた場所は、亡くなっあとも「鶴見学習塾」という看板がいつまでもかかっていたが、あるとき取り外されて「かつら」の看板に変わっていた。
か、つ、ら、とそれぞれのひらがなが流れるような字でたてに並んでいて、しかも右上がりの奇妙な字体が揺れているように見えるのである。
鶴見せんせいが残した配列である。