ところが、仕事が終わって携帯をみると「ザック土手までいきました」とラインにある。
え、昨日はとてもむりに思えたのに、生肉をあげはじめて元気が戻ってきた?
と、さっきまで考えていたことと逆の方向に胸をなでおろす。
水曜日は、月曜日に点滴をした動物病院にもう一度行って、点滴をと考えていたが、このまま一日おきに点滴をするのか、と考えるともうすこし間をあけたい、という気になる。
費用の面でも。
なにしろ肉に食欲が出ているのだから、このままいけばゆっくり回復できるだろう。
木曜日には、野口整体の先生のところに二度目の治療を受けに行くつもりだった。
このまま週に一度くらい、野口整体の療法なら続けてもいい。
予約の電話をして、受付の女性に事情を話す。
先週木曜日に治療を受けた後元気になって、金曜日は食欲も出て、鳥ささみを二本食べることができ、安心したこと。
ところが油断して土曜日、午後五時間ほど留守をして帰ってきたらケージにおもらしをしてびしょびしょになっていて、また嘔吐があり、以来また食べなくなってしまった。
月曜日のあさ、餌ボールにからだを起こすこともしないのにショックを受けて、前に超音波を撮った動物病院に連絡をするが、前回薬を拒否したせいか、ほかへ行ってほしい、と言われ、近所の動物病院に連れて行った。その病院で血液検査をしたら、あまり悪くなかった。超音波をもう一度撮って、それでまだわからなかったらバリウムを飲んでレントゲンと言われたが、この状態でバリウムを飲ませての検査に耐えられるのか、それで異物がみつかったら内視鏡か開腹手術、と言われた、と話す。夫が、このままだと死んでしまう、と獣医の治療を望んでいることも話す。
残念ながら、先生が治療中で話しができなかったが、明日話させてもらうから、と電話を切ったのだ。
夜も牛肉を五十グラム弱食べて、もっと欲しそうに肉のほうへ首を伸ばした。
だから、大丈夫なんだ、きっと。
私がもう上で寝ていると、帰ってきていた夫から呼ばれた。
夫はザックの症状が改善すると私を呼ぶから、またなにか良いことがあったのだろう、と布団の中でぼんやりしていると、上がってきて、ねえまり、ザックが俺の足にうんちしちゃった、と言う。
帰ってからずっと抱きしめて輸気していたら、急にうんちしちゃったんだけど、と言う。
ぎょっとなって、目をしばたきながら降りて行くともうぐったりしている。
心臓がどきどきしてあたまが破裂しそうになって、震えがくる。
ザックの頭を両手で抱え、どうしよう、どうしよう、と言っている。
どうする、深沢へ連れていく、その上でいやなら治療しないと言えば良いんだから、後悔することになったらいやだもんね、どうする、どうする、とふたりに聞くと深沢の救急へ連れて行くことになり、萌が電話してくれる。
すぐに行くことにして、ちょっと持ってて、とザックのあたまを洋に頼み、上で着替える。ジャージーの洋にもズボンだけ変えるように言う。
家を出たのが十二時。
萌が軽い羽ぶとんにくるみ後部座席でザックを抱えている。
ねえ、もうダメかもしれないよ、おかしいもん、こんなの、と言う。
萌ちゃん、お母さんが変わろうか、もしかしたらザックこのまま死んじゃうかもしれないよ、
と言うと、ねえ、いまそんな話ししなくていいんじゃない、と苛立つ。
だって、覚悟しておかないと、と言うが、
いまここで交代してザックを動かすほうが心配、と言われる。
車のなかで私が吐く。
下の子がダウン症と診断されたとき、車椅子の上で吐いた。
夫の立会い分娩だったが、八ヶ月の早産で生まれてきた赤ん坊を、新生児科の医師がチェックに来て、そのまま連れ去ってしまった。
悪夢のような瞬間。
夫の腕をつかんで、ふつうのこ?と聞くと、夫はうん、と頷いたのに。
赤ん坊は集中治療室に入れられてしまった。
赤ん坊に会わせてくれ、と頼むと。
分娩を終えたばかりの私は車椅子に乗せられ、新生児集中治療室付に入った。ダウン症というだけのことで元気だったのに、いろいろな検査をするため。
生まれたての赤ん坊は、母親と一緒にいるべきなのに。
喉が渇いた、と言うと夫がお茶を買って来てくれたが、一口飲んで吐いた。
車椅子を押す看護婦の同情した目と、同情を表さないようにする配慮。
猫の心臓病のときに通い慣れた動物医療センターに到着し、車から降りて救急のピンポンを鳴らすと獣若い男性がふたり出てきてザックを抱えてさっさと中に連れて行く。
すぐに血液検査、レントゲン、エコーといろいろな管に繋がれ、台の上に寝かされる。
私はザックからいっときも目が離せない。
いっときも手を触れずにはいられない。
検査結果が出るまで外に出るように言われる。
ここにいてはダメですか、と聞くと、じゃまです、待合室でお待ちください、と言われる。
そうだよな、ザックの上に三、四人スタッフが屈みこんでいる。
私は、車のなかで吐いたあと、今度は頻尿のようになって、たびたび下のトイレに行く。このトイレも以前よく利用した。
スイッチを押さなくても、自動に探知して電気が点く、清潔で近代的なトイレ。
血液検査、レントゲンの検査結果が出るまで待つ間、0時すぎの夜間救急動物センターに駆け込んでくるひとがあとをたたない。
あたたかな数日のあとの寒気の夜。
私たちが着いたとき着ていた男女が人組み、そのあと駆け込んできたひとたちが二組。どの顔も深刻だ。
獣医に呼ばれる。
若くて太った男性、しきりに額の汗をぬぐう。
「死ぬ一歩手前でした」と言われる。
このまま点滴をどんどん流して様子を見る、翌朝回復していたら、別の病院に移して開腹手術、と言われる。
超音波に消化管のところに二センチくらいのものが映る、これが原因じゃないか、と思うが、はっきりはわからない、と。
ザックが飲み込んだと疑われるタオルを、夫が持参していて、遠慮がちに見せようとするが、獣医は興味がなさそうで、それが消化管に詰まっているとは考えにくい、と言う。
朝までは、こちらで預かるので、いったん帰って待ってください、なにかあったら連絡します、と言われ、家を出る前は、入院って言われたらどうする、娘に聞くと、そのときは連れて帰ってこよう、と話していたのだが、そうはならない。
そうか、ここにザックを置いて行くのか、と考えている。
良い状態じゃないことだけは覚えておいてほしい、と言われ、万一あぶなくなった場合の処置としてどこまで望むか、と聞かれたとき、夫より先に、延命のようなことは望まない、むしろ自然なながれで亡くなることを希望している、と私が答えた。
三人で帰宅したのが二時過ぎで、それぞれが電話を枕もとに置いて寝る。
猫がにゃあにゃあ鳴いて、ばたばたと上行ったりした行ったりしている。異変を感じ取っているのだ。
三時近くに電話がなり、血圧は落ち着いてるが、と肯定的な情報を先に言ったあと、腹水の中に細菌が見られ、緊急手術になるかもしれない、と言う。
いますぐではないが、そうなった場合承諾書をかいてもらわないといけないから、お手数ですがもう一度来て欲しい、と言う。
この状態で手術できないから、明朝まで待って、と言っていたのに、切ると言うのだ。手術して命が助かる見込みは、どれくらいあるんですか、と言うと、手術しなければ確実に死にます、手術すれば何割かは助かる可能性がある、と言う。
家族と相談します、と言うと、次に連絡するまでに考えておいてください、と電話を切る。
ひとり考えていると、娘が下からあがってきて、
彼女はザックの具合がわるくなってからずっと、一階のソファベッドで寝ていた。
なんだって、と聞く。
手術するかどうか、私はザックには耐えられない、と思うけど、萌はどうしたい、と聞く。
ガスストーブを点けて背中をあたためながら、しばらく考えている。
「手術したい」
とひとこと。
私もひとこと、わかった、萌は手術だね、お父さんにも聞いて見るから、とだけ言う。ここでなにか言うと自分の意見を変えてしまうかもしれないから、我慢してなにも言わない。
娘は下に戻って行く。
隣りの娘の部屋で寝ている夫に、どうする、と聞くとなかなか返事をしないので、次に連絡があるまで考えておいて、と言って自分のベッドに戻る。
次の電話は、すぐにかかってきた。
結論でましたか、どんどん状態が悪くなっているので、腎不全も起こしている、と声が焦っている。
意見が分かれていて、と言い、いまから行ってもいいですか、と言うと、もちろんです、と言われる。
夫はいびきをかいて寝ていてなかなか返事をしないが、揺さぶって、どうする、電話があった、と言うと。
じっと黙ったあと、手術、と答える。
わかった、二対一だから、いいよ、と言う。
私はもうすっかり自信を失っていて、なにが正しくてなにが間違っているのかわからない。
当然と思っていたことがぜんぜん誤解だったり、こんなことあるわけない、と思っていたことが当たり前に持ち上がって来たり、そんなことがあるのだ。
六十三歳のいま、思うこと。
ふたりが手術したい、と言うのなら、私も従おう、とこの時点では思う。
翌日仕事の夫にこのまま寝ていて、萌と出かけるから、と言うと、ほんと、と言ってそまま寝ている。
私は下に寝ている萌を起こし、かわりに夫に下で寝てもらうことにして車を出す。
午前三時の道路は空いていて、車も通らず、いつもと同じ道とは思えない。
我が家から深沢への道は、娘が転校後三年間通った私立小への近道で、学校へ行きたくない娘をむりやり車に乗せて、朝食のおむすびなどをたべさせながら、顔色のわるい子を強制的に学校へと運んだ道なのだ。
厳しい日々だったのに、なぜかこの道を娘とふたりで通るのが楽しい。
猫の通院時代も、車のなかで娘とふたりでいろいろな話をした。
その道も、いつもとは違うながめである。
私は道を間違えて、右折すべき道を通り越してしまう。
次の右折道路は例によって一通で、仕方なく左折してもとの道に帰ろこうとして、これまた例によって迷ってしまう。
一刻を争う事態なのに、こんなにうろうろ時間をロスして、とよろよろ夜中の世田谷を運転しながら、あたまががんがんしてくる。
助手席の娘にナビを頼むが、スマートフォンのほうが早い、とスマートフォンのナビに従って救急センターへ向かう。
こうしているうちに、ザックがもう手術できないほど弱って、手術するかしないかの決断をしないで済んだらありがたい、という気持ちがちらっとかすめて、あわてて打ち消す。
うろうろと道に迷ううちに、トイレに行きたくなる。
やっと到着してトイレに駆け込み、二階に上がって行くと、奥の治療室と待合室のあいだにある診察台のある部屋で、獣医と娘が向かい合っていた。
どうですか、と聞くと腎不全も起こしているし、いますぐ手術をしても三割、実際には手術の準備などの時間を考えると二割、と言われる。
それでも手術をしたい、と萌が言うか、と思ったら、
「もういいかな、手術しなくても」
と、涙でうるんだ目で言う。
獣医も、われわれとしては、このまま死んでしまうのに、できる処置はないか、と考えるが、手術をしても死なないという保証はないし、ご家族の判断でいいと思う、と言ってくれる。
会えますか、と聞くといいですよ、と中に入れてくれ、さまざまな検査器具の並ぶ治療室の、ガラスばりの酸素ケースの中でザックが首を回して、こっちをすっきりと見上げている。
ああ、ザックと小さな窓から手を入れてザックを撫でる。
萌を見上げて「連れて帰る?」と聞くと、
萌がうなずいて「連れて帰ろうか」と言う。
獣医は、私が救急センターの前に車を回すまでの時間・・またしても夜中の一通を曲がったり折れたりしながら時間がかかる・・ザックを抱いて、萌と話しをしてくれていた。
ザックは全然眠らないで、きょろきょろひとの顔ばかり見ていた、と。
いつもいつも私の姿を探して、私を目で追ういきもの。
ザックあたたかくなってきたね、と後部座席でザックを抱きながら萌が言う。
そうか、よかった、ザック、よかったね、がんばったね。
帰宅したのは五時半。
ソファで眠る夫に、ザック連れて帰って来た、と言うと、そう、とひとことだけ。
九時になったら、近所の獣医に電話しよう、八時にはファックスで経過を知らせておくことになっていた。
それまで保たないだろう、と思えたが、もし生きながらえた場合、痛みどめが六時間後には切れてしまう。
その場合のことや、もし、もっと生きた場合、明日の仕事のあいだ見てもらえる場所が必要だった。
そんなところまでザックが生きるとはとても思えなかったが。
呼吸は早く、苦しげで、私は志賀直哉の「母の死」という短編を思い出す。畳に敷かれた布団の上で、だんだん息の間隔が遠くなって行く実母のありさまの描写がこわいほどだった。
いまザックの息は、とても早く、荒い。
痛み止めを打ってしまったので、治療室できっと私たちを見上げたのが最後になった。ぼんやりとしてまった。
そのことは残念でならない。
いつもいつも、あれが最後とわかっていたら、と悔やむ。
自分を悔やむ。
ザックが息を引き取ったのは午前九時三十五分。
娘が最後まで腕のなかに抱き、ザック、ザックと声をかけつづけた。
おかあさん、と外に出た私を娘が呼んだ。
あわてて中に入ったそのときは、もう呼吸が止まっているように見えたが、ザックはそれから大きく苦しい息を口から三度吸ってから、動かなくなかった。
眠っているような穏やかな顔。
いつもいつも私を探している不安定なザックが、静かにひんやりと横たわっている。
十年三カ月の命。
私たちと暮らした九年八ヶ月。
こんなふうに、命が唐突に断絶し、繋がっているかに思えたときの流れがぷっつりと切れてしまうと、どうしてよいかわからなくなってしまう。
そういえば、今年の元旦、夫が挙げていた凧がちょっと目を離したすきに、風に持ち去られ、後を追ったが、高度を増して多摩川を超え、見えなくなった。
そう言うと、それは関係ない、そのあと別な凧拾っただろ、と土手からの帰り道に糸の切れた凧を見つけて、苦労して糸を手繰り寄せて持ち帰ったことを、夫は言うのだ。