ひとの嘘というのは、いつかわかるものだと思う。

2000年に亡くなった叔父の病床で祖母との思い出話しを持ちかけると彼が怒った顔になるのかなぜなのか、ふしぎの理由を考えた結果、どうやら祖母が亡くなったとき私が葬儀に欠席したというのがその理由であるらしいことに行きついた。

その当時私はスリランカに暮らしていたが、もちろん帰ってこれない距離ではない。

 

晩年アルツハイマーであった祖母が、それまで永く入っていた千葉の病院から追い出しがかかって行き場を失い、実家からは近いが扱いの荒い大田区産業道路沿いの病院に転院させられた。

私は二度目の妊娠で一時帰国していた。

大きなお腹でバスに乗って見舞いに行くと大部屋に収容された老人たちのあいだに祖母のベッドがあった。

おばあちゃま、と呼びかけて泣いた。

灰色のもやがかかっているような病室は、祖母のあたまのなかの有様でもあったのかもしれない。

もう、呼びかけても反応が返ってこなかった。

私たちがスリランカに戻っても、祖母はしばらく生き続けた。

 

コロンボ・セブンのコロニアル風の大きな家の二階には広いバロコニーが付いていて、この物件を見にきたときたまたま父が日本から来ていて、一緒にバルコニーに立って庭を眺めながら、ここから侵入しようと思えば上がってこれるよね、と言うと、

侵入しようと思えばどんな家だって侵入できるさ、と言った。

そぉ?と聞くと、ああ、と言った。

 

そのバルコニーでときどき瞑想のようなことをしていた。

おばあちゃまが死んだような気がする、とかなりはっきりした感覚だったので夫に言った。

翌朝、早い時間に祖母が亡くなった、と養母から電話が入った。

簡単にするから帰ってこなくていい、と言ってくれた。

 

私にとっては、母親代わりの祖母だったから、帰るべきだろうな、と夫と話していると、また養母から電話がかかってきて、小さな子どもを連れて帰ってくるのは大変だから、帰ってくることないよ、とやさしい口調で言われた。

東京から戻って数ヶ月してやっとこっちの生活テンポになれたころでもあり、帰るべきという思いと、おっくうな思いと両方あり、行かないことにしてしまった。

養母のめずらしく私を気づかうやさしい口調も決心に手伝っていた。

こんなに言ってくれてるのに帰ったら気を悪くするかもしれない、という気持ちがどこかにあったとしたら、自分自身に対してとても残念だ。

「やっとよいほうに向かう」何度も何度も裏切られながらも、八歳のときからいじめられてきた養母との関係に習慣のような希望がわく。

これは虐待の構図。

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