森鴎外の「半日」という作品について、吉本隆明がこういう作品を作家は残しておくきべきだ、と書いていた。
高橋たか子という高橋和巳のワイフが、夫が死んだあと暴露的な私小説を発表して、高橋の評価がガクンと落ちたことに憤慨しての発言である。
生前自ら家庭内のことを書き残しておかなかったから、死んだあと好き勝手書かれてしまったじゃないか、という論調ではなかったか。
単行本にはなっていたが語り言葉だったと記憶している。
あべよしみさんという方の朗読で谷崎の「台所太平記」という面白い長編が残り少なくなってきたので、次なる作品を探したところ、「半日」を見つけた。
森鴎外というひとが家庭内でいかに苦労したか、この短編に書かれたことが事実であるとすれば哀れである。
分不相応の出世をしたため、出世後に結婚した相手は、社会的地位もあり金もある家の女子である。
露伴もそのようなところから二度目の妻をもらって、折り合いがわるくついに別居した。
文さんがふたりの間でたいへん苦労したのである。
文さんの弟など、不良になって肺を病み、早々に亡くなってしまった。
鴎外の母親は、自分の食べたいものも食べず、着たいものも着ずに鴎外の学資に貢いで息子を博士にまでした老母である。
妻はこの老母をきらい軽蔑し、なによりも姑の声がいやだ、と言っては家を出ていくと脅す。
自分ひとりなら、出ていくと言っても止めてもらえないので、娘を連れていく、と娘を人質にするのである。
この妻は、今でいえばおそらく診断がつくであろう、聴覚過敏のようだ。
妻の実家からは、鴎外のほうが神経を病んでいる、と叱責される。
私の実家では、祖母と父の再婚相手である養母と最後までいがみあった。
狭い家のなかで、ふたつの勢力が敵対している空気。
台所、食卓、風呂といった共有部分が争いの場となる。
平和な家であれば、笑いにあふれ、ほうっと一息つく空間が常に緊迫している、という異常。
私は祖母も、父も、連子の私をきらう養母さえ可哀想で可哀想でならなかった。
ほんとうに可哀想なのは八歳の自分だったのだが。
自分を可哀想がることができず、おとなを可哀想がっていたのかもしれない。
一日の流れが緊張に満ち、日々が苦痛であった。
家のなかが安心でない、という状況。
自分の家は他のひとの家とは違う、ということに気づくようになると、私は家のなかのことを恥じ、隠し、嘘というのではないがひとに話すときは脚色するようになった。
しかし、当然やがてみんな死んでいくのだが、養母は今生にみやげを残していった。
私と腹違いの弟のあいだを断絶して死んだ。