住まなかった家 39/4フラワーロード 

この文章と、写真を一緒に記事にしようと長らく探してきた写真が去年の連休の大整理のときにみつかり、あった!と傍によけておいたはずが、どうやり捨てるほうへ流されてついに見失った。

家族の記念の写真を取捨選択するという気の重い作業を、気合をいれて短時間で終わらせたので、間違いは起こる。

写真は私の記憶のなかにあるだけのものとなった。

 

以下・1998年5月の連休直後のメモ

 

 ケイがMADURAIというインドの南から送ってきた手紙がコロンボから東京に返送されてきた。

宛名が<39/4FurourRoad>となっている。

 

連休明けに、カメラに入っていたフィルムを現像してみるとみなみと行った洗足池の写真に混ざってフラワーロードの家で撮った写真が出てきた。

 

テラスの花だなから南国の赤い花が咲き乱れていて、花びらの散った掃除のされていない芝生にケイと娘が寄り添っている。

娘は、また五歳でだいすきな親戚のお兄さん的なケイに信頼しきってもたれかかり、ケイはそんな娘を愛おしそうに見下ろしている。

スリランカの強い光に照らされて、ケイも萌も、かれらにふりかかる光線の白い流れのなかにいる。

 

住むはずだった家。

テッサという大きな犬。

すぐに住めるようにしつらえた家具とカーテン。

中庭と庭に面した書斎。

書斎で展開される筈だった仕事と「お話し会」。

熱気。

サーバントルーム。

台所。

前に住んでいたドイツ人が緑色に塗った食器棚。

大家の家の巨大なパラボラアンテナ。

二階のテラスに花壇があり土がまかれていた。

一度、テッサが階段を駈けのぼってテラスに出てしまい、足に泥が付いて、二階が泥だらけになった。

肥満したゴールデンリトリバーが階段を這うように駈けのぼる格好がおかしくて娘とまりなちゃんは笑い転げた。

 

やっと決まった家に何度も行ったのはこれから無事にスリランカで暮らせるようにという

祈りをこめてだった。

娘と日本人学校の新一年生になるまりなちゃんを連れて、エリコPとも、ダルリやニャーナとも出かけた。

わたしには迷信があって、先行きのことを期待し準備をすると実現しない、と、

いつからかそんなふうに思い込んでいるので、そんな準備をめったにしないのだ。

しないようにしてきたけれど、結局一番楽しいのは空想し、準備する段階なのだからそれをしないのはもったいないじゃないか、と気持ちに変化があった。

 

そして、迷信が的中して突然スリランカに帰れなくなった。

 

家の準備は水のあわ。

契約もなし。

カーテンも家具も大家が返してきた。

まりなちゃんと行くはずだった日本人学校もなし。

ダルリは失職してしまった。

 

 

結果的に最後となったコロンボを出発する2日前のこと、パリから来ていたケイがマドラスへ出発した。

フランス国籍を取得したために徴兵を受けることになったので、徴兵前に世界一周旅行を決めたのだった。

ヒルトンタワーの26階の部屋で、しばらくインドで耐乏生活をすることになるケイに冷凍のウナギでウナ丼を作り、ケイはぺろっと平らげた。

ニャーナ不在のキッチンで食べ終わったどんぶりと箸をきちんと洗ったケイとヒルトン・タワーを出た。

コロンボの午後の時間はだるく、身体の重い私は指定の時間に来たジャシンハの運転する車でケイを空港まで見送った。

1ヶ月前に爆弾が誤爆し、人がたくさん死んだ通りは昼時で道が混んでいた。

旅から旅への生活の本格的な始まりを意識して緊張しているケイと爆弾事件があって避けていた道を空港へ向かう。

爆弾が破裂したとき、ヒルトン・タワー26階の窓ガラスにこれまでにない妙な振動がしたから走った。

ひとは体験したことのない感覚に対して敏感だ。

ぞっと鳥肌がたった。

 

 

空港に着くと、ハグもパリ式のキスもなく、

ケイが「おせわになりました」とちょっとなまって言い、日本人どうしのような挨拶をして、最初のゲートに向かったが、チケットを見た職員があっちへ行け、と後ろを指して言う。

ケイが立場がなさそうに戻ってきて、

「インドがきらいだから?」と顔をあかくして言った。

遠い方のゲートにあっさり通されるとケイの背中が緊張が高まるのが分かった。

 

私は一人でコロンボに帰るととても疲れ、頭が痛く、その日の予定をキャンセルして家に居た。

あの日、娘はどこでなにをしていたのだろう?

3月16日の月曜日のこと。

あいりの家だったのだろうか。

あの日はOSCスクールの日本人の送別会がヒルトンホテルのプールサイドであっ

たはずだ。

あいりの母が幹事をやっていたのだ。

娘はあいりと一緒に居たのだろうか。

私がキャンセルしたのはにべちゃんと始めて行く家だった。

忘れてしまった。

 

以下、2日後に娘とスリランカを発った飛行機のなかで書いた夫への手紙。

コロンボ空港で買った紙質のわるいノートに書いてある。

 

DEARはこちゃん

EKは無事離陸しました。

手に入れ墨をしベールを被った女の人たちに囲まれています。

2日前にケイを見送って空港の通路を通ったときは、健太の遺骨を背負って悲しみに

襲われながら日本から到着した日のことを思い出してぴりぴりしましたが、きょうは予行

演習があったおかげでなにもかも楽でした。

ケイを見送った後の消耗感はとても強かったけど、それは今日のためにあったんだな、というかんじ。

なんとスッチーはランチにワインをボトルでくれちゃってボジョレーですごくおいしい。

初めてエア・フランスで成田を飛び立った日のことを如実に思い出します。

ぱたんと飛行機の扉がしまるときっと解放感があるだろう、と区に勤務していたころは期待していました。

でも実際には後ろ髪を根こそぎ持って行かれるような気分でした。

 

今、思うと、あれが、わたしの旅立ちであり「公務員」というぬるま湯から立ち上がる瞬間だったのです。

 

エミレイツが好きなのは、洗練されたかたちでアルジェリアが思い出されるからかもしれ

ません。

赤ワインとプロセスチーズ。輸入バターとパン。

アルジェリア以来、私たちのたどってきた道程を思います。

パリからケイが来て、アレジアの歯医者、サンミッシェルのケバブサンド、えっちゃんと2人のカカウエットとジャックダニエルを思い出しました。

えっちゃんが最後に妊婦となり、あなたと帰国するわたしを見送ったとき、空港のエスカレーターの先に立って決して振り向かなかったこと、思うと涙がでます。

 

 

・・そして、娘は4月5日に区立小学校へとりあえず通う手続きをとり、夫が二週間後に憔悴しきっためずらしく機嫌のよくない顔で実家マンションの玄関に立ったのだ。