桜の花が、満開。
今年の桜の花はしろっぽくて、迫力に欠けるように感じる。
ものの味と同じで、こちらの感性がにぶくなっているのかもしれない。
2月25日に亡くなったいとこの魂が、まだこの世に漂っているような、
そんなふうに思う。
いとこが、このうすい色の桜の満開の春に、たゆたっている、そんなふうに思う。
なぜか偶然出てきた18年前のいとこからのEメールの文章、
叔父が、退職時の健康診断でガンと診断され、あれよあれよという間に亡くなった、そのときの模様がつぶさに記されている。
私は、メール文をコピーしてあったのだ。
そして、こうして彼女が亡くなってからも、メールの文章を繰り返し読むことができ、あの子の声を聞くことができる恩恵。
コピーを発見して、ああ、こんにふうに父親の闘病をしたのだな、と思い、
あれ?年賀状きてないな、
久しぶりに連絡してみようかな、
いやいややめておこう、
親戚付き合いはどうぶんいいや、
と思った数日後、メールに訃報が入った。
いとこは、三番目の叔父の長女として誕生し、美しく健康な赤ん坊だったのだ。
まばゆいような血色の、色白で鼻筋がすーっと整った日本的な美少女だった。
二人目の叔父のひとり娘もハーフと間違えられる美形で、舶来の子供服など着せられていた。
正月の全員集合の写真を見ると、父はわたしのことを「落ちるなぁ」と言った。
色がくろく、不器量で、小学校高学年くらいから肥り始めた自分の娘を。
ところが、なぜだろう、まばゆい女の子が摂食障害、暴走族との恋、妊娠、出産、子の問題行動、セラピー、離婚、再婚と続く。
そのことが不幸とは思わないが。
父親と同じ病気で52歳の若さで亡くなってしまった。
「早すぎる死」ということばを聞くと、ひとの命に平均なんてないのにおかしい、
と思うのだが、
自分より年下の身内の死に接すると、早すぎる、と思ってしまう。