三橋工房

谷崎へ出かけた翌週、こちらも締め切り迫ったラ・ロンダジルという店で行われる三橋工芸の着物と帯。

母と娘の二代で行う工芸店とのことである。

美しい着物と帯の写真。

雨が降っていて寒いし、なにより散財するのが心配。

このままだらだらと週末を過ごすのが良いかも、と思いながら、歯切れがわるく決め切らない。

まあ、ぱっと行ってこよう、ということで出かけた。

神楽坂は、着物を始めて最初に「神楽坂着物フリマ」へ行き、そこで気に入って買った着物は、最近丸洗いに出して、裾のほつれを直したところ、大島と言われて喜んだ。

八掛も大島よ、と言われ、なお喜んだ。

美味しいお好み焼き屋さんもあり、ペコちゃん焼きも懐かしく、好きな場所である。

 

思いのほか小さな店舗に、思ったより少なめの着物地と帯、日傘やバッグ、草履の鼻緒などが展示されている。

やや入りづらい。

小さな空間に、女性が三人、三人とも和装である。

好きなタイプの着物の着方。

柄物の半襟と、柄物の足袋。

ややゆるい着付け。

こちらは、ぱっと出かけたのでセーターとスカートである。

こちらに興味を示さなかった年配の方が、私が恐々バッグを手にもったり、鼻緒を見たり、着物地を眺めはじめたあたりから、接客してくださり、私がその方の着ているなんともいえない着物柄に興味を持って質問すると、熱を入れた説明を始めてくださるようになる。

この柄は、なんと宇野千代さんデザインの輪乱線(わらんせん)という柄で、なかなか売れないので自分で染め直して着ているという。

宇野千代さんのデザインする柄を一代前のお父様が染めていて、麻雀仲間だったとのこと。

へえぇぇぇ、宇野千代にぐっときてしまう。

買うんだったら、これだな、と眺めたのが「蛸唐草」。

たこ・からくさっていいよね〜。

唐草は西洋ではベーズリー。

ベーズリーがすきだ。

値段だけ一応聞いて、いやあ、夏着物にとてもとても、と帰った。

帰りは晴れてきて、犬の散歩に行かなくてはならん。

 

帰りの地下鉄で、私の頭はたこ・からくさでいっぱいである。

 

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こむらがえり

夜中、右足のふくらはぎがむらむらと腫れてきて、

やばい! こむらがえり!!

とベッドの上で半身を起こして膨れあがってくるふくらはぎを撫でたりさすったり。いよいよ筋が引っ張られてきて、ううっとうなる。

最近二度目。

先日もゴッドハンドの手を借りた。

右踵が痛くて歩けず、歩けないと仕事にならないので、躊躇せず車で運んでもらった。

 

「最近、こむらかえり起こさなかった?」

と聞かれた。

そう、そういえば、覚えがある。

「せんせい、こむらがえりってどうして起こるんですか?」

と尋ねると、

「そうね、いちばんは冷え。」

以来、古いハイソックスを切ってふくらはぎに履いて寝ていたのだが、その夜は横目で見つつ、めんどくさい気持ちで履かなかった。

谷崎潤一郎全集の第12巻、装丁は棟方志功である、を枕をクッションで高く盛って、頭を預け、老眼鏡の最強のものをひっかけて顔を横にして読むしあわせ。

なまなましい世界である。

なまなましいし、意地の悪い世界でもある。

 

頭がなんとなくぎらついているのは、「古事記万葉集」の中間試験ともいうべき問題集の締め切りが迫ってきていて、その日一日勉強らしきものをしたからか。

 

こむらがえりは、最悪の痛みのやや手前で治って、隣の夫に、こむらがえり!

と言う。

眠っているひとにわるいかとも思うが、言わずにはいられない。

ふぇというような声を出すので、こ・む・ら・が・え・り!!

と大きい声を出すと、起き上がって私の足をなんとかしようとするので、いいのいいの、と引っ張って寝かせる。

サッカー部だった彼の、足がつったときの処方はあらっぽくて、後遺症が残る。

足がつっているのに、つっている足のつま先をつかんで反対方向へ折り曲げて、筋を伸ばすのだ。

これをやられると、悲鳴をあげそうに痛いばかりでなく、硬くなったふくらはぎがへんに強ばってしまうのだが、本人によれば、足がつったときの一番の方法なのだそうだ。

 

その後、寝付けなくなった。

夫のイビキ。

ねえ、イビキ!

というと、ふぇぇ、イビキなんかかいてないよぉ、と生意気なことを言うが、覚醒後意識にのこっていない。

イビキかかないで!

と何度も言うが効き目はない。

下に行って寝てもらおうか、と思うのだが、夫が下の、建増し安普請の部屋で寝ていて、地震が来たら、と思うと下へ行けとなかなか言いにくい。

もし地震が来て、彼だけ安普請の建増しした部屋でつぶされてしまったら、夫のイビキがうるさいばかりに、殺人の罪を背負って生きなければならない。

本気で思う。

従って、イビキに悩まされて眠れない夜を過ごし、ぼおっとした朝を迎える。

つった右足は硬ばって歩きづらい。

 

現場に車で行くのを止めて、電車とバスで出かけた。

たらたらと歩いて、車だと30分で行くところが1時間以上かかり、ホールに着くとすでに5歳児が並んでいる。

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弥生美術館 谷崎潤一郎とキモノ

今年の初めに、フェイスブックで弥生美術館の展示の紹介が回ってきて、ぜひ行きたい、できれば着物で、と思っていた。

2月の初め一緒に行かない、とママ友を誘ったら、3月からだった。

また声をかけるね、と言ってそのまま気がついたらもう6月。

会期は6月までだ。

チラシやネットを見てもあまりぱっとした紹介がされてなくて、無理に行かなくてもいいかなぁ、と迷いはじめた。

まあいいか、と出足が鈍ってひきこもるパターン。

 

土曜日は腰が痛くて仕方なかった。

温めて昼寝をしたら持ち直して、表参道に出かけた。

お祝いに絵本を贈るのは、クレヨン・ハウスときめている。

同じ絵本にかわりないが、アマゾンで買うのとは違うのだ。

クレヨン・ハウスのラッピングにかわいいカードが付いている。

絵本を済ませたら、すっかり調子が良くなっている。

よし、このまま弥生美術館へ直行しよう、と思ったが、着く頃には閉館という時刻。

千代田線のホームであきらめた。

 

お出かけは、土日のどちらか、と決めてはいるのだが、翌日腰痛はすっかり治っている。

行ってしまえ、とあまり気乗りのしない夫と出かけた。

「谷崎文学の着物を見る」のキャッチコピーでは伝わって来ない内容に、出足が鈍るのだ。

 東大前は、東京大学という日本一の大学の駅である。

夫は、かつて出入りしていたらしい。

別件で。

初めて行く場所の場合、夫のアイフォンまかせきりだが、アイフォンに没頭して彼が車にひかれないよう注意しなくてはならない。

 

弥生美術館は変わった建物である。

古いし、西洋式か和式かわからない。

入り口で写真を撮っているひとがいる。

日本人である。

そこまではまだ解らなかった。

中に入ってみないと内容はわからないものである。

谷崎の小説に登場した女性の着た着物を、アンティーク着物で再現しマネキンに着せている。

谷崎のテキスト、本に描かれた挿絵も着物とセットになっている。

美しい着物である。

花柄に花柄の帯、蝶の羽織。

いま、コレド室町の着物のイベントなどに行くと、着物の下はハイヒールというオシャレな女子がいるが、日本女性はとっくの昔に、着物とハイヒールの組み合わせをしていたのだ。

谷崎の最後の奥さんと姉妹たちの写真。

写真に基づいて再現された着物をマネキンが着ている。

谷崎の美の世界に圧倒された。

 

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帰ってから、全集を持っていたはず、と本棚を探すと、なぜか13巻までしかない。

12巻に「蓼食う虫」があり、さっそく読み始めると、

ああ、黄八丈とか黒八丈とかよだれの出そうな着物描写。

微にいり細にいり、谷崎の描くすがたかたち、衣装への執着。

抜いた衣文からのぞく背中の皮膚。

メッシュの手袋と手袋から透ける爪。

三十代で読んだときには、理解できなかったエロい描写がしつこく迫ってくる。

奄美の海を見ながら、想うこと。

昨年の6月に亡くなったひとからの手紙をようやく整理して、最後の手紙を読んでみると、私は勘違いをしていて、

手術前、と思い込んでいたが、

いま読んでみると、もう手術を終えて退院し、自宅から週に一度通院しながら治療をしているとある。

「副作用もあり、たいへんな日々です」

と書かれてある。

 

重篤な病と死に向かう心構えを書いた手紙である。

そうだ、体調がわるい、と誘いを断ってきた彼女に、思い切って電話をしたときの内容と手紙を混同していた。

あるいは、落ち着いて、手紙を読むことができなかったのかもしれない。

自分の次のリアクションばかり気になって、冷静に受け止めていなかったのかもしれない。

 

約束を破って私に知らせないまま死んでいったひと。

黙って死なない、約束だよ、という約束。

 

偶然の奄美だが、島尾敏雄の「死の棘」が映画化されたのを、トルコ時代パリに上がってレ・アールの小さな映画館で観た。

観客は老人ばかりで居眠りをしているひとが多く、こんな暗い日本映画を観に来たお年寄りたちの理由がわからない。

夫と私は、日本語で観れる日本の映画に飛びついたのだが。

原作は以前に読んでいたが、映画はいまひとつだった。

狂気のエゴとと健常のエゴ。

死に向かうひとのエゴと、生に向かうひとのエゴのせめぎ合い。

女と男のエゴのせめぎ合い。

いま観たらわからないが、そのときは観終わってくさくさした。

冬だったと想う。

暖かい映画館から出ると、かつての大市場レ・アールはものすごく冷え込んでいた。

 

よいのだ、私のエゴなんだから。

と、思う。

逆の立場だったら、私だってそうしただろう。

一年たって、彼女の死が、彼女の不在が違ったものに感じる。

自分のエゴや勘違い、思い込みで見えなかったものがわずか透けてきたようで、

ニセモノくさい、と批判的に見ていた彼女の夫婦関係。

最後まで、自分勝手に生きなかった。

樹木希林じゃないが、死ぬ時くらい勝手にさせてよ、というわけには行かなかったのだ。

最後まで。

あのひとが女じゃなかったら、と考える。

女じゃなかったら、あんな死に方をしないで済んだ、と私は思う。

女がきらいで、女に手厳しい女。

ベビーカーを押す若い母親、ダンナに赤ん坊を抱かせる女、赤ん坊を連れてカラオケに行く女、肌を露出した服を着てチカンに会う女、同級生のだれそれ。

いつもいつも母親の介護を愚痴るひと、石原に投票しないなんてバカ、と決めつけるひとに対する怒り。

私のことはなんて言ってたんだろう。

私の思い込んでいた彼女との関係こそニセモノくさい、と気付いたら、

もしかすると彼女の夫は、最後はちゃんと看取ってくれたかもしれない、と思えてくる。

だから、よい。

彼女が、もう苦しみのない世界にいて大丈夫なのだから、私も大丈夫と思う。

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春休み終了

春休みが終わる。

ぎっくり腰を境に、なるべく外て出ることを心がけた。

まずは江ノ島水族館へ、ラッコ目的で行ったが、またしてもラッコは居ない。

小学生やアベックで賑わう江の水で、もぎりのおねえさんに、

ラッコにはどこで会えますか?

と尋ねると、一言のもとに、江ノ島水族館にはラッコはいません。

え?

娘に、え、ラッコに会えるよって言ったじゃん、と

腰痛の残る腰をかばいながらクレームすると、

 

どうやら八景島と間違えたらしい。

ええーっと残念であるが、まあ海風に触れて帰ればいいや、と水族館の窓がすらすらと海岸線に沿っていて、晴れた海岸に遊ぶ、サーファーや子どもの姿を眺めている。

水族館では、おおむねおとなもこどもも楽しめる。

ただ哀れなのは、ぐにゃぐにゃの新生児と、新生児を抱いてスマホをいじくるパパ。

上の子とママは、イルカやペンギンのところへ行ってしまったのだろう。

 

そのうち、ショーが始まると言う。

外のプールで行われるイルカショーのようなものを想像していたら、館内放送で大きい水槽の前に集まってください、と言っている。

美ら海水族館にあったような、大きな縦型の水槽というより、ガラス張りの部屋に水を張ったというプールの前に老若男女がひしめいている。

そこを見下ろせる二階のベンチに座って、ショーが始まるのを待っていると、水族館のユニフォームを来た年配の太った男がマイクを持って、これからショーが始まります。

始まる前の注意を申し上げます、と始めた注意がこまかく、しつこく、くりかえし、頭が痛くなってくる。

やめる?

と娘に言うとどっちでもいい、

もうちょっと待ってみる?

いいよ、

ということでいらいらいらいらしながら、太ってメガネをかけたおじさんのこまごまとした注意。

床にはこうやって座れ、立っているひとはこうやって立て、はい、そこのおともだち、もう少し足をひっこめて、この色から出ないようにお願いします、よいですか、この色の部分から、足を出さないようにしてください、みなさんわかりますか、この色です。

 

ほんとうに嫌である。

 

私はチョー劣等生で、学校でもこういうしつっこい説明が始まると反抗心でいっぱいになって、一言も聞かないぞ、と両耳を両手で押さえるような生徒だったから、一言も聞かないで困るのはあんただぞ、と堂々と教師は私を最下点におとしめ、おとしめた上にうすわらいでばかにする、という報復の処置をとったものである。

 

ショーが始まったと思うと、若いきらきらしたウェット・スーツを着用し、変わりみつ編みのかわいいお姉さんがでてくる。

ウェット・スーツに包まれた若い肉体がはちきれんばかりである。

ところが、始まったのは、魚の説明。

なんだよ、こんな説明聞いたってしょうがないや、帰る?

と娘に聞くと。

始めが一番つまらないから、もうすこし待ったほうがいいよ、おかあさん、

と言う。

まさか、あのひとが水槽の中に入るわけじゃないよね、と思っていると、なんときらきらのお姉さんがシュノーケルをつけて、水槽のガラス越しに登場したのである。

 

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