2時間10分の芝居が終わって、線路沿いの道を家に向かって歩く。.
地上から45センチ上を低空飛行している心地。
視線をぐいっと低く固定して、腰をふんばり、地上45センチから見えてくるのは見たことのない景色だ。
神保町の美学校というビルの二階。
神保町駅から地上に出るのに、上がったり下がったり、階段しかないつぎはぎの地下通路にげんなりしていて、ビルに付いてまた階段かと思うとガックリきた。
それでも古い建物の階段は比較的上りやすく、ザ・スズナリの苦い経験から、いつでも逃げ出せる入り口付近の席を確保。
二階のひろい部屋がその日の芝居《てんで ばらばらで あいまって 光》の舞台である。
客席は窓側に二列、椅子と座布団、壁際に二列椅子と座布団が並んでいる。
部屋の中央部分に演者が立つ。
舞台が暗くなって入り口が閉められる時間が近づくと、緊張が高まって出口を振り返り、振り返り、いざとなったらどう出ていくか、イメージトレーニングする。
うっすら明るいまま、するするっと始まった。
語られることばが標準語でないことに心からほっとした。
そして音楽がないことも。
チャラチャラーというようなさざめきのようなせせらぎの音がながれつづける。
話しの核は、母と娘。
こういう仕方で娘を支配してきた。
母がひとりで生きるために新興宗教に入信し、健康のためと称するさまざまを自分が試すだけでなく、娘にも強要する。
母からすれば強要ではないが、娘にとっては侵害なのである。
娘と公園で知り合った男子との会話も、会話として成り立っていないように聞こえる。
意味をめぐらないことば。
それでも発せられる声は、響き合って、傷つけたり守ったりする。
男子が身を寄せている共同生活に娘も出入りするようになる。
場を営んでいるのは中年男性であり、そこにも信仰があるようだ。
娘の独白が会場から聞こえてくる。
窓側と壁側に座る演者がふたり、同時に声を発しはじめる。
シンクロナイズするふたりの声が娘のあたまの鳴り止まないことばを語るのだ。
なぜ、そんな気持ちになったのかわからないが、急に、自分が孤独で家族や社会から切り離され、足場がどこにもなく、淋しくて、淋しい自分を恥じていたころ、
その日の息がせいいっぱい、明日生きている自分が想像できない、という頃のひといきひといきに引き戻される。
芝居に流れるストーリーとはべつに、私は過去の苦しい息に流されていた。
闇の中を這いつくばれ、とどこからか命令されているような日々だった。
私の核にいまだ存在する闇。
私のどろどろした闇を克明に浮かび上がらせてくれた広島弁の芝居。
この静かな劇のどこにそんな作用が潜んでいたのか。
脚本家の力か演出家の力か?
役者さんたちか?
翌朝目が覚めると胃の奥の底のほうが揺さぶられた実感が残っている。
揺さぶられる実感はしみじみとして、地上45センチから見たもうひとつの世界をにわかにひらいてくれる。
カール・ラガーフェルド撮影のヨーコさん。