愉快な夢

講師として雇われていた幼稚園の主任、さわこ先生が着物を着ている。

アイロンがけしたブラウスをぎゅっと第一ボタンまで首を閉める彼女は、和装の際もエモンを抜くことはせず、襟の後ろがぎゅっと詰まっている。

紺色の着物である。

さわこ先生、おきもの?

と言うと、目を少しタレ目気味にし、お恥ずかしいのですが、このたび結婚することになりまして、と言う。

ええーっと失礼なほどの大声で驚くと、なおもタレ目でわらっている。

どの方?

とむこうをみると、小柄な頭髪もうすくなった男性が他の方たちと正座してるのである。

なんか、さえないかんじのひとだなぁ、と思いながらことばを探している自分。

優しそうな方、とかなんとか。

 

夢だった。

でも、さわこ先生がだれかと結婚したら、いいなあ、と思う。

さわこ先生が、いつまでも主任をしてくれていたらなあ、と思う。

先生が主任をしていたら、私も続けていたかもしれない、とも。

 

先日テレビで地方の保育園だったが、90歳すぎの主任さんがオルガンを弾いて、子どもたちが踊っていた。

さわこ先生も、90までできたんじゃん、と思う。

 

それがどういうことか、わからないが、

「むこうからきた」

と表現することがある。

どうして?と関係者全員が驚愕した彼女の退職の理由をさわこ先生は、そう言った。

自分でもよくわからないんですが、むこうからきちゃったんです、と。

 

この幼稚園を私もやめる決心をして、私の場合は「むこうからきた」のではない、ちゃんとした合理的な理由があるのだが、さわこ先生の退職が残念な気持ちは変わらない。

同級生

実家の写真店があったのは、第二京浜国道産業道路のあいだをむすぶ下町とも言い切れない、商店街というほどの規模もない、住宅街ではない、中途半端な地区で、

いまはもう消えた店舗あとに今風のマンションが建ち、周囲から浮き上がっている。

周辺の町工場は変遷をくりかえし、看板だけを残してほとんどが消えている。

うちの店もとっくにたたみ、前のパン屋さんも、食事中におかずが足りないと惣菜を買いに走った食料品店も、電気屋もシャッターを閉じてべつなものになっている。

 

むかし、父がDPEの窓口に頼んでいた大鳥居の時計屋さんをしらべていたら、急にモデルになった同級生を思い出した。

モデルになった彼女を、JR蒲田駅で見かけたことがある。

髪にスカーフを巻いて、裾のひろがったパンタロンを履いていたモデルっぽい彼女。

・・しかしこの時点で、わたしの記憶は混同していた。

小学校のころの同じクラスの同級生とはべつに、おなじ区内の小学校に有名なモデルがいた。

名前を保倉幸恵といい、一度連合運動会なる区内の小学校何校かで行った運動会で、あれが保倉幸恵だよ、とだれかに言われたのか、あるいは目立つその姿に自然にだれ?と目が止まったのかもしれない。

連合運動会のリレーの選手だった保倉さんの、勝気な走りっぷり、負けたときのふくれっつら。

背が高く、足が長く、目立つ容貌だった。

 

なぜか、これまで考えつかなかった、そんなむかしの子役モデルをネットでしらべようとは、

調べてみたら、画像を含めて保倉さんのことを書いた記事が出てきた。

画像を見て、私は保倉さんの容姿を思い出し、そこで初めて、ふたりのモデルを混同していたことに気づく。

同級生のほうは名前も覚えていない。

きっとモデルとして大成しなかったかわりに、平凡な人生をおくったのではないだろうか。

保倉さんのような人生ではなく。

保倉さんは22歳で亡くなっている。

自死である。

 

画像のなかには、何人かの少女モデルと写っているグラビアがあり、そのなかの保倉さんは私が連合運動会でみた勝気な、負けることのきらいな強固な意思を秘め、ほかの少女と異質なものをもっているように感じる。

異質さがなにを表すのか、わからないが。

異質さがなにがしか生きづらさにつながったのか。

すでに生きづらさがあり、表情になにか特別なものを秘めていたのか。

しるべくもないが、保倉さんがいまだに、ひとびとの気持ちのなかにあり、ネットのなかで生きていることに、私はほっとした。

まだ保倉さんを覚えているひとたちがいて、画像やプログで残そうとしていることは救いに思える。

 

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夏休み

日野の現場が夏休みに入るこの時期、めったに会えないひとと会うことにしている。

昨年は、ぎっくり腰で動けず、会えなかったママ友とは二年ぶり、娘が年内に結婚するとのこと。

スリランカでは同級生だった娘同士、生まれた年は同じだが、二月生まれのうちのこより、学年は一年下。

娘に話すと「へぇー」とだけ。

 

役所時代の友人とは、二年半会っていなかった。

もうずっとずっと前から難病を患っている。

状態がよくないと聞いていたが、なかなかやってこない彼女を待っていると向こうから、杖をつき、ものすごく痩せたけわしい顔の女性が歩いてくる、え?と思ったら別人でほっとした。

ほんものの彼女は、いつもと変わらない姿。

杖はついていたが、にこやかな笑顔で登場する。

 

彼女に助けられ、彼女を助けようとするもうひとりの友人が、いろいろと世話を焼く。

もともと世話を焼かれることが好きじゃない彼女。

ひとりで黙々と耐えてきたひとである。

そういうひとが病気になると、周りは大変だ。

いや、どんなひとも病気になれば、しかも進行性といわれ、いずれ車椅子、いずれ食事も介護なしではできなくなる、という脅しにさらされる病。

この三十年、病と生きる彼女は、自分のやるべきことを黙々と続け、自己流リハビリをしながら、進行を少しでも遅らせる暮らしをしている。

 

昨年、いよいよ状態がわるくなって、外へ出ることができなくなってしまった時期があった。

バスに乗ってでかける週に一度の稽古事は、この四十年ほど続けているが、稽古仲間が送り迎えしてくれたそうである。

ありがたい仲間がいてよかった。

彼女のことだから、あまりありがたい顔もせず、サポートを受けているのだろう。

もしかしたら、考えてそうしているのかもしれないが、あまり気を使われて、ありがとうとかすみません、とかごめんね、とかたんびたんび言われるような関係だったら長続きはしないのかもしれない。

ひとのサポートを受けながら生きるということは大変なことだ。

 

神なき国では、ひとさまに迷惑をかけない生き方をよし、とし、ひとの世話にならないと生きられないひとを弱者とする。

 

杖を使いながら、よろよろと自分の行く方だけを見てゆっくりゆっくり歩いて行く彼女。

ひさしぶりのランチを終えて、しばらく考えさせられた。

自分の不寛容さと、みみっちさ。

わたしならこうする、わたしならこうしない、はナシにしたい。

 

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 水風呂につかって、きもちよさそうなコケ丸くん

 

 

家のなかが片づいていって、中身が空洞になっていく様子、洗濯ものや、犬の散歩や、いつもの日常が続いていても、様子が違うのが、外からでもわかる。

 

先週の月曜日引越しで、二、三日後に残務があって引越し先からやってきた。

引越しの当日も、残務の日もすごい暑さ、ピンポンが鳴って出て行くことすらふうふういう感じの日で、

引越しをし、新しい住居にいろいろ運んでもらうことは業者がするとしても、

その日からその家の暮らしを始めなくてならないYuさんの、どんなときでも笑顔で元気なその表情にもさすがに疲労感がみえた。

あいかわらずの笑顔で、否定的なところがどこにもないようなひと。

そんなことあるわけないが。

ぐっと押し黙って歩いているようなときでも、このひととすれ違うと、あーと両手を握り合ったりして、道端でさわがしく、一瞬の元気をもらってきた。

 

一昨年の秋に、父親の中村さんが亡くなって、そのときもなにごとかあったしんとした空気が家の外からわかったし、もっと前、7年ほど前におばさんのほうが亡くなったときも、私道挟んだ向かいの家の様子はじかに伝わってきた。

 

そもそも今年26になる娘が2歳のときに越してきていらい、中村家とは近所で唯一親しい付き合いが持てていた。

中村さんが、一回目の発作からリハビリをしていて、ひとに連れられて歩行訓練をする姿に線路沿いの一本道でなんどか行き交って、よろけそうになる身体を支えられて笑ってはいたが、中村さんを通り越すことに申し訳ないような気持ちになった。

自力で最後まで生活することに、必死でいらしたから、無理しているかんじもあり、なかなか思うように歩けるようにならないことにジレているのがよくわかった。

リハビリする姿を、私に見られることも、うれしくなかったにちがいない。

一緒にくらしていた次女のYuさんが、日に日にしおれていく姿に、中村さんの機嫌がよっぽどよくないのだろう、と推測していた。

そんなときに、2回目の発作が起こり、子どもたちが延命処置をしないことに決め、そのまま亡くなった。

彼が、いなくなってしまった地域に、住み続ける気がしなくなった、というとしばらくは私が居るから、とYuさんになぐさめられた。

が、とうとう数ヶ月前、家を処分することになった、と言われ、ショックを受ける私に、だいじょうぶ、だいじょうぶ、とハグしてなぐさめるのはYuさんのほうである。

 

家は、なかにだれもいないと、もう家のようではない。

昔、助けてもらったお礼に贈ったブルーベリーの木も、娘が小さいころ、枝ごといただいていたさくらんぼの木も、毎年箱いっぱいもらってジャムにしていた夏みかんの木も、もう持ち主を失って、ただ倒されるのを待っている。

ガムテープを貼って投函されないように封をした郵便受けの前の、きれいな植え込みの観葉植物だけが、数日前に降った雨で、ぴんと元気になった。

 

週明けから解体がはじまる。

 

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クローデル展

無理矢理、開館時間ジャストに着くように家を出た。

 

今年二度目の神奈川近代文学館

かつて、図書館司書の資格を取るための講習で知り合った、当時まだ大学生だった女の子は、どうしても近代文学館に勤めたくて、夏休み中アルバイトをして自己アピールをしたそうで、努力叶って倍率をくぐり一発合格。

私のほうはせっかく取得した司書資格を活かす前に、図書館を退職し、退職したあとしばらく文通したり、たまに会ったりしていたが、どうもむこうはしぶしぶだったような。

その彼女も、いまごろはもう退職しているだろう。

 

私が文学館に足を踏み入れたのは、一昨年前の宇野千代展のときが初めて、それまで行きたいと思っても、とうとう行かなかったのは、なんとなく彼女のことがあったからかもしれない。

意味不明な心理だが、わたしはそうなのだった。

 

次が今年四月の与謝野晶子、そして今回が三度目のポール・クローデルである。

寒い日曜日であった。

朝九時、アメリカ山公園にはひとけがなく、文学館も閑散としている。

ポール・クローデルの膨大な仕事。

写真も多いし、文字も多いし、

 

入り口に、カミーユが作った弟の胸像があり、ブロンズのひんやりとした輝きの奥に、カミーユの弟に対する愛を感じる。

カミーユが悲しい。

ポールの上に終生姉の悲しみがあったのではなかったか。

 

カミーユ・クローデルの映画。

あの女優さんだれだっけ、ロダン役のあのひと、最近ロシアに亡命したひとの名前・・、夫と頭をひねるが出てこない。

なるべくアイフォンを使わず、脳細胞を駆使してみるが、とうとうイザベル・アジャーニジェラール・ドパルデューも記憶の表面に浮いてこなかった。

そのころ親しかった友人の勧めだったか、イザベル・アジャーニカミーユを演じる映画をそのころのVHSで見た。

最後にカミーユの実際の手紙の文面が流れる。

どこも異常のないようにみえる手紙の末尾に、いきなりロダンが自分の作品を盗んだ、ロダンは悪い奴だ、と読み上げられる、と、

ああこのひとは病んでるんだ、とぞっとした。

でも、わからない、ほんとうのところ、ロダンカミーユの作品を盗み、愛人関係にあり、助手を務めていた女性を、

「ただのあたまのおかしいおんな、事実無根!」

と発信すれば、世間はもちろんそっちを信じただろう。

ME TOO運動のいまでも、なかなか難しいかもしれない。

 

夫のアルジェリア勤務時代、日本はバブルでパリでもどこでも日本人がいっぱいいた。

ひとりで地図を持ってロダン美術館まで行ったとき、大柄な身なりのよいアメリカ人の男から「ジャップ」とつぶやかれた。

かたわらに、同じく身なりのよい大柄な妻がいて、そちらもこわばった顔をしていた。

大柄で身なりの良い、裕福な白人。

 

え?

まさか・・私が日本の教科書で習った平等な世界が、歪む瞬間であった。

そして、私はロダンの作品から漂う男権主義がとてもいやで、ロダン美術館のなかに展示されていたカミーユの作品にほっと息をついたのであった。

 

「象はわすれない」というアガサ・クリスティーのポワロシリーズのなかに、母親が電気ショックや冷水風呂の精神療法(療法って?)によって、精神を病み亡くなった、と医師を冷水風呂に溺れさせて報復するシーンが出てきて、カミーユもこんなことされてたのかもしれない、と酷い気持ちになった。

クリスティーがいつの時代を背景にして書いたものかわからないが。

クリスティーのほうが、カミーユ・クローデルより26歳ほど若いし、長生きしたから33年遅く亡くなっている。

アガサも、カミーユのように母親から愛を受けなかった。

 

ポール・クローデルが、自分の国に帰国して、原爆投下を知ったときの衝撃と、日本への心配が書かれた手紙が、彼の残したたくさんの詩作、戯曲、手紙の展示の最後、出口付近にあり、読みながら、今回の震災と原発事故のあと日本に帰化したドナルド・キーンのことを思った。

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こんなとき、パパがいたらなぁ、という思いがためいきのようにわいてくる。

感情を昂ぶらせ、荒らげ、根にもってじくじくとうらみ、そんないりくんだ親子関係だったが、どん底のときに頼るのは父だった。

 

スリランカ在住のころ、雇われていた日本企業に倒産の噂がたち、自分たち家族が寄って立つところは、実のところその企業であり、

そこが倒れると、事務所も家も、現地スタッフも、家のなかで立ち働いてくれている現地の雇われさんも、みんな失うことになる、という恐怖、

昨日まで「マダム」と呼ばれていた立場がうしなわれ、ひょっとすると逆転するかもしけない。

果たして、倒産した会社がどこまで派遣された社員の面倒を見てくれるのか、怪しいものである。

 

日本に一時帰国し、名古屋から東京デズニー・ランドにあそびにきていたコロンボ時代の友人親子と一緒に父からランチをご馳走してもらったことがあった。

遊びまわるなかよしの娘たちに焼肉をジュージュー焼いてくれて、

「ほら、たべろ、すきなだけたべろ」

と言う父に、

「ねえ、大丈夫かしら、会社が倒産したらどうなるの?」

と、不安をもらすと、うすわらいして

「大丈夫」

と言う。

「どうして?倒れるかもしれないって、言ってるよ」

「大丈夫!」

とうすわらいのまま確信をもって、言う父であった。

 

結局会社はなんとか持ち直して、少なくともいまもって倒産はしていない。

「だからいったろ」

オレの言ったとおりだろ、と生きていれば、父は言っただろう。

 

あとになって、名古屋の友人から、

ほんとうにうらやましい、と言われた。

「あんなふうに、自分の不安をお父さんに言えるなんて」

と。

 

父は、残念ながら関係が最悪で、法事で会ってもろくに口も効かない、というころ倒れ、意識不明のまま亡くなったので、

「昏睡状態の人と対話する」

というアーノルド・ミンデルのプロセス・ワークの方法で、13ヶ月のあいだ対話を繰り返したが、それはもう証明のしようがない。

父とわたしがコミュニケーションできていたのか。

たとえ、わたしに確信があっても。

証明できる範囲では、親子断絶した状態で倒れた、というところまでだ。

 

いまだ憎々しく思い出すこともあるし、ふっとあたたかい思い出に浸ることもあり、感情の対極ははなればなれ、歩み寄ることはない。

 

でも、こんなふうに帰路に立たされたとき、父が生きていたら、頼っていただろうな、と思う。

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ついに六月

いやな季節。

先週末は、アガサ・クリスティーばりの怪事件にテレビに釘付けとなり、いけないいけないと思いつつ、週末をはさむと展開が遅くなるので、金曜日中に犯人が特定できないものか、とじりじりした。

クリスティーものだと、たいてい最も犯人らしくないひとが犯人だから、五十五歳年の離れた妻が犯人だとしたらつまらない。

しかし、アイフォンからなにを聴いているのか、イヤホンを垂らし、長い髪にブランドのロゴの入った大きな紙袋を肩から下げて、報道陣のフラッシュをくぐりぬけるふとい根性の若い女性がいやである。

エムケを読み、コーツを読んで自らの感性に疑問符を投じるわたしも所詮おばさんである。

わかいおんなに容赦ない。

被害者である老人に同情があるわけではない。

ゆいいつ同情するのは、愛犬のイブちゃんである。

犬の可愛がり方も、ずいぶんとだらしない。

イブちゃんの寝そべるテーブルは雑然としていて犬を飼う上で注意しなくてはならないものが置いてある。

 

週明けで、進展があるかと楽しみにしていたら、新幹線内でまたテロのようなことが起こった。

痛ましい。

加害者の父に謝らせているのはありえない。

しばらく加害者の親へのインタビューがない、なにか規制が設けられたのかと思っていたら、またやってる。

 

秋葉原の事件や池田小の事件のことを報道するのはやめてほしい。

しばらくテレビを観ないことにしよう、となんども挫折することを思う。

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