暴力が学校に集中する理由が知りたい。
世界のあちこちで学校を舞台にした事件が起こる、コロンバイン高校、池田小、神戸の事件だってまず校門から始まったのだ。
その理由。
放送大学がふつうにラジオから聴けたころ、ふと耳にしたこの授業がわすれられない。
荒れる中学校で教師がどのようにして子どもたちと過ごしたか、いのちがけの日々。
いじめ、体罰、校則といった問題が客観的に統計を交え、とりあげられているのを集中して聴いた。
「学校システム論」は大学院の教科だったので、四大を出ていないと単位がとれない。
単位がとれてもとれなくても関係ないっちゃないんだけど、でも取らなかった。
教科書だけでもほしいと思ったが、授業料とあまり変わらないほど高かった。
ふと思ってアマゾンを探したら中古が何冊かあったので、この機会に購入。
第3章「大衆化する教育意識」のなかで「ピアノ殺人事件」を取り上げている。
一般家庭のピアノ台数は、世界中で日本が一位だそうである。
日本の特殊ともいうべき住環境を考えると不自然な気がする。
ヤマハという会社の歴史にも触れられている。
ピアノ殺人事件は1974年のできごとだそうで、私はもっと前のように思っていた。
火事場のばか力で苦労して月賦祓いで買ったピアノを外に運び出した音大生の話と混同していたかも。
「狂気・・ピアノ殺人事件」上前淳一郎著に興味がわいて読んでみた。
この事件の加害者である男性の聴覚。
小学生のころ、隣に住んでいた子どもが吃音で、その子と一緒に遊ぶうちにかれ自身がきつおんになってしまうのだ。
吃音がうつる、ということはまれにあるそうだ。
隣の子どもは長じて吃音が直り、うつされたひとは直らなかった。
騒音トラブルに悩み始め、ついに殺人事件に発展するまでの、このひとの孤独な人生に吃音であることは大きく影響していただろう。
被害者の団地での存在。
私はつい、団地のなかで取り巻きを作り、グループ特権を行使してだれかを排除するだれかを思い浮かべる。
そいういパワーに痛めつけられた経験がある。
被害者が私の知っているだれかに似たひとかどうかわからないが、団地にそういうシステムが存在していたことは確かだ。
団伊玖磨が「パイプのけむり」のなかで、「キャパシティー」としてこの事件に触れている。
「パイプのけむり」はアサヒグラフに連載されたのが単行本になり、続々続々と続いたのを父が持っていた。