昔勤めていた役所のともだちにフジコさんがいた。
そもそもなぜ、フジコさんとともだちだったか、といえば親しくしていた同僚とフジコさんがともだちだからだった。
なぜ同僚がフジコさんとともだちだったのか、といえばふたりとも年がら年中遅刻しそうになって、バス停で会っては、バスでは間に合いそうもない、とタクシーを拾い相乗りするあいだがらなのだった。
フジコさんはおしゃれで、やぼったい役所のひとたちと格別に違う装いだった。
色白で小柄、長い長い黒髪がほそい腰あたりまで垂れていた。
ピアスをしていた。
顔の造作もすべて小さなつくりにだった。
目も鼻も口も。
わらうとやさしい目が消えそうになる。
お酒を飲むとまっかになって、ものすごく飲むのをまるで自慢のようにしていた頃、ともだちとわたしと三人で寿司屋に行って、あれでワリカンはなかったよなぁ。
またそういうことを気にかけないひとでもあった。
いいのいいの、と気前よく財布からお札を出した。
あんな程度の役所にもクセのつよい上司がいて、フジコさんはえらそうな上司の秘書のようなことをさせられ寵愛を受けていたのが、これもよく聞く話しだが、あたらしく来た大卒の女の子のほうにポストを取られて、大卒と比較されていやな目にあったりしていた。
きれいなワンピースにハイヒールとか、襟元をリボンでむすぶブラウスとギャザースカートのツーピースとか、目の覚めるようなグリーンだったり、真紅だったり、灰色の役所のなかで目立つ存在だった。
あのように静かな、おとなしいフジコさんが、堂々とひとと違うファッションをする勇気はどこからきていたのか。
私も服が好きで、給料の大半を服につぎ込んでいたが、私のほうは挑戦的で、そもそも服を買うとき、これを着て行ったらあのひととあのひとがどんな目でみるか、なんて、そんなことをちらっと考えながら選び、気にしながらも気にしていないようにふるまう大胆な自分はたいていの場合役所のひとからきらわれた。
フジコさんが、なぜか突然守衛さんと結婚することになった。
不釣り合いな、灰色のうわったぱりを着たぱっとしない男性と、それまで付き合っていた男性をふって結婚してしまった。
みんなが反対した結婚式に私も招かれた。
なぜあなたがフジコさんのともだちなの、と隣りになった役所の女性から聞かれた。
フジコさんのお父さん、お母さん、お兄さんはみんなフジコさんを愛していた。
フジコさんも自分の家族がだいすきで、自慢なのだった。
新郎の友人の司会者が、恥ずかしがって真っ赤になっている新婦と新郎にむりやりチューさせようとしたとき、やめてください、と大きな声で怒鳴ったのはお兄さんである。
その声は怒りに満ちて、会場がしんとなった。
この結婚はうまくいかなかった。
ダンナのお母さんと合わなかったし、フジコさんの愛は結婚後すぐに冷めてしまったようだった。
あんなにきれいで、変わった服を着ていたひとが装いにかまわなくなった。
つやのある長い髪も切ってしまい、短い髪はフジコさんに似合わなかった。
何度かむりに誘ったが、出てこなくなった。
一度、同僚の家に食事に招かれたとき、やっときてくれたフジコさんは居心地がわるそうで、会話もはずまず、もじもじ縮こまっていた。
数年前に、魚屋で偶然会ったときは、私の手をぎゅっとにぎって泣いてくれた。
お母さんの具合がわるくて、お魚を買って行くの、母ここのお魚が大好きだから、と魚屋の長い黒エプロンに長靴姿のおかみさんを喜ばせるようなことを言った。
それが最後で、私は元同僚と絶好というような別れ方をしたので、フジコさんと共通のともだちもいなくなった。
どうしてなのだろう、と思う。
なぜ、ずっとずっと付き合っていくことができないのだろう。
それとも、それは案外よくあることで、こだわる自分が特殊なのだろうか。
ひととひととの付き合いは、始まりがあって、終わりがあるものなのだろうか?
26年間ほぼ片時も離れず、くっついて、おおむね幸せだった娘との関係が終わる。
来春に、娘は家を出て行く。
理由は「親から離れたい」。
仕事場も遠くなり、生活も大変だというのに。
BBC放送のキャスターやリポーターが赤い花のワッペンを胸につけている。
今日は第一次世界大戦が終わった日です、と日本語同時通訳のアナウンサーが米国大統領や、テロ、死刑になりかかったものの釈放された女性に対して抗議デモに集まる男たちの拳、などの合間に言っている。
カナダ人作家アリス・マンローの小説のなかで、私がいちばんすきな「家族にまつわる家具」Family Furnishings という短編の出だしは、この日である。
マンローの父親と父の従姉妹アルフリーダ、そしてマックという犬が、太陽は輝いているが、氷が溶けるほどではないあたたかな日、氷を踏んで遊んでいたら、突然教会の鐘、街の鐘、工場の警笛までもが鳴り始めた。
「世界が喜びではじけ、犬がパレードと勘違いして道路に走って行った」
第一次世界大戦が終わりを告げた日だった。
この短いストーリーのなかに、もう一度この日の景色が登場する。
長年マンローが思い込んでいた、犬と無邪気に遊んでいた父とアルフリーダの子ども時代の話しが、実はふたりとも高校生だった、と父の葬儀に来た見知らぬ女性から教えられるシーンである。
このシーンには凄みがある。
父の葬儀に集まった大勢の人のなかから彼女に近づいてきたこの女性が一体だれなのか、マンローは挨拶をしながら探っている。
母親を早く事故で亡くし、その後父親が再婚、アルフリーダはマンローの祖母に育てられた。
この女性のなかにアルフリーダに似たところをみつけ、きっと異母妹のひとりだろう、と思い、子どものころのあなたと会ったことがあります、と言ってみるのである。
「あら、わたしはそのひとではないわ」
とこの女性は、自分がアルフリーダの隠し子であることをマンローに告げる。
不足のない年齢で亡くなった父親と、父のつないだ故郷の人々との葬儀で一時的に和解の気分が生じていたマンローは、アルフリーダが老人ホームで暮らしている、という話を女性から聞いて、訪ねて行こうかしら、と言うのである。
「うーん、それはどうかしら」と女性。
自分は母からマンローの父の話や、マンロー自身の話しを聞いています、と言う。
この辺りから雲行きが怪しくなって、女性から「好意的な様子や無害な雰囲気」はなくなっている、
「あなたが母からなんと言われていたか知りたくありませんか」
そうらきた、とマンローは思う。
「冷たい、自分で思うほど賢くない人間だ」と言っていた、と聞かされる。
「 私が言ったんじゃないですよ、私はあなたになんの恨みもありませんから」
アルフリーダという女性は、裕福とはいえない農場で育ったマンローの親族の、いわば「はみだしもの」であったが、マンローの父とは気があって、マンローの両親にとっては、たまに町の空気を運んでくる女性として一目置かれていた。
アルフリーダは仕事をしている女性で、ローカルな新聞のコメント欄を担当していた。マンローが優秀な成績を修め、二年間だけの奨学金を得てアルフリーダの暮らす町の大学へ行くことになると、アルフリーダは小さい頃から知っているマンローを食事に誘うが、マンローは無視し続ける。
卒業が決まり、婚約もして新しい世界への足がかりを着実なものにしてから、最後の誘いを受ける気持ちになる。
マンローはアルフリーダが愛人と住む家へ出かけて行く。
豊かでない農場の出身であり、女性でありながら、トップクラスの学業成績で大学へ行き、さらにもっと大きな都市へと移り、実は詩人になることや作家になることを夢見ているマンローは、親族や故郷ひとびとからの裏切り者なのだった。
なぜ、アルフリーダからの食事の誘いを二年間断り続けたのか、私にはわかる。
どういうことになるか見当がついていたのだ。
そして、食卓で予想通りのことが起こる。
マンローが作家になろうという夢を語ると、ローカル新聞にコメントを書いているアルフリーダは一蹴する。
「そんな人間を何人も見てきてる。なにひとつまともな仕事ができない連中」と。
そして、前にも書いたことがあるが、テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」という芝居を仲間と観に行った、というマンローに敵意をむき出しにして、あんないまわしいもの、と声を荒らげるのだ。
こういう嫌悪は覚えがある。
新しいものを嫌う。
いまや「欲望という名の電車」は芝居の古典である。
世論が変われば変わる、簡単なものなのだが。
嫌悪の度に、驚かされることが私の思春期にもちょくちょくあった。
たとえば「グループ・サウンズ」
長髪でなよなよしたミリタリー・ルックの若い男たちに対する叔父の嫌悪たるや、すごいものだった。
その嫌悪の底に、どこか性的なものが潜んでいたように思う。
男なのに髪がながい、
ミリタリーなのに戦闘的でない、
男なのに女のような格好をする、
という嫌悪は女なのに、という嫌悪とイコールではないか。
その怒りは強烈なものだったが、彼のもろさが露われていた、とも思う。
私はひとと同じことをすることが苦しかったが、同じことをしない、ということはもう挑戦として嫌われた。
嫌悪が向けられた。
短編の終わりを読むたびに鳥肌がたつ。
アルフリーダの家を午後から友だちと会うから、と早めに辞退して、ひとり見知らぬ町を歩くマンロー。
友だちと会うというのは嘘であった。
バスが横切って行くが、乗客は知らないひとたちである。
向こうも自分を知らない、
「なんという恩恵」と書いている。
因習的な生まれ故郷からの開放である。
用もないのにふらふら歩いているものなら、ふらふらしてるのを見た、とか
そういえば、あの日どこどこで見かけたけど、など言われてしまう。
モンゴメリーの描く美しい自然、「赤毛のアン」に傾倒していたマンローが美しい自然を求めて散歩することも叶わない農村部。
「自然に傾倒している」などと言おうものなら、あるいは「詩がすきだ」などと言おうものなら、かわりもの、と見られてしまう。
ドラッグストアに入ってコーヒーを注文すると、煮詰まった薬のような液体が出てくる。
「これこそ私が求めていた飲み物だ」
ドラッグストアの主人が聞いていたラジオから野球中継が聞こえてくる。
「ラジオから群衆のどよめきが、悲しみな満ちた大きな心臓の鼓動のように聞こえてきた。型どおりの波の音、遠い、ほとんど非人間的な賛同と悲嘆。」
まさにこのとき、自分がなにを書きたいのか、書こうとしているのか、マンローは掴んだのだ。
すごいなあ、心臓が悲しみに満ちているなんて!
なぜだろう、球場のさわめきが悲しく、愛おしいのは。
私はマンローの一人称の短編を彼女自身の実話として読んでいるが、実際には違うだろう。
この短編に登場する隠し子の女性の話などいかにも作り話っぽいが、そこにあるリアリズムは確固たるものである。だとしたら、親族にいたのであろう「アルフリーダ」として描かれている女性と、作家となったマンローが、父親の葬儀で明らかになった対立とはなんだろう、と思うのである。
休日にひとりで家にいるのがいやなので、朝早く出た夫につづき、早めのお昼を食べて外出する娘と一緒に家を出た。
フェイス・ブックでちょっとおもしろそうな絵画展の記事を見たので、思い切って行ってみることに。
夫と違ってアイフォンの地図ではなく、手書きの地図。
「こんなところに日本人」という千原ジュニアの番組で現地のひとの書く地図が笑い者にされるけど、あんなかんじ。
ばかだからか、ちゃんとした地図は読めないし、読めば読むほどにわからなくなるのはなぜだろう?
品川駅で娘と別れ有楽町。
初めて高校の友人と一緒に行った銀座。
役所時代の友人と行った銀座「琥珀亭」の珈琲。
ライオンで酔い取れていた公務員時代、私のなかで銀座は変容する。
友人たちは、家族と一緒に出かけた銀座で入る店が決まっていたのだろう、高校時代の友人と入ったそば屋。
三越を斜めに見て、晴海通りに面したラーメンや丼もののあるふつうのそば屋。
一緒にうどんをすすり、男性客が「ごちそうさまでした」と出て行ったとき、
ああいう男の子ってかわいい、と彼女がどんぶりに顔を近づけてそっと言った。
ちょっと気取った鼻にかかった声。
ほんの短期間の友達関係で、後味わるい終わり方だったが、中高一貫校で中学から女ばっかりだった私と、高校から入ってきた彼女には男子との交流があり、男子に対しての言動にびっくりすることがあった。
そのとき、ごちそうさま、とお勘定を済ませてそば屋を出ていった男子ではなく、ああいう男の子ってかわいい、と言う彼女、
くすりと笑ってそういうことを言う彼女に感動した。
そういうふうに思うものなんだ、と。
そういう男の子は「かわいい」ものなんだ、と。
私の地図がわかりやすかったのか、すぐに画廊が見つかり、入ってよろしいですか、と聞かなくては入りにくい空間にそっと入る。
つまらなかったのは、ハンコで押したように同じパターンの絵が並んでいること。
私は、逆さまになって落ちていくひとの絵に興味を持っていて、たとえばフリーダ・カーロのエンパイアから飛び降り自殺した女優の絵や、宇野千代展で見た落ちる女の絵。
作家さんが、なんとも自信なさげにうろうろしていて、しばらく観ていたが、帰りに外に立っていた作家さんに、挨拶して帰ってきた。
せっかくなので、山野楽器で楽譜を買って帰ることに。
ちびちび爆弾のいとこが、人生でやりたいこと100のリストを作るといい、私は100なんてすぐいっぱいになった、と言うのでやってみたら20くらいしかない。
だめ、100なくちゃ、と言われる。
あと80・・。
そのなかに、バッハの平均律二巻に挑戦する、というのを入れた。
なんとなくまあ一巻で十分という気がしていたのだが、二巻に挑戦しない理由もない。一ができれば二だってできるかも。
で、クソ山野楽器で第二巻を買い求めた。
なぜ「クソ」かといえば、店員がたくさんいるのに、上の空でなにを聞いても満足に答えられず、それでいい、と思っている客あしらいが何年も前から気に入らない。
忘れてつい入ってしまう。
ネットで買うと送料がかかるしね。
そこで偶然みつけた遠藤賢治の特集雑誌。
「ありがとう遠藤賢司」となっているのはどうして、と思いながら帰りの電車で読んだら、去年亡くなっていた。
「ありがとう」は「さようなら」だった。
テレビをつけると偶然、小津作品が放映されていて、
どうやら地元蒲田らしい風景があって、引きこまれる。
その昔、小津作品が好きな友だちがいて、かれらと一緒に名画座やレンタルビデオで観たころとは違う、
すばらしい画像である。
白黒ではあるが、リマスター版の鮮明な画像。
こちらに入ってくる世界もぐっとリアル。
原節子も、声でそのひととわかった有馬稲子さんも、その美しさ、まっすぐな背骨、揺るぎのないウォーキング。
歩く後ろ姿が多い作品である。
玄関に出る原節子の廊下を歩く後ろ姿
お茶を運ぶ女子事務員が、部屋を出て行く後ろ姿
この「東京暮色」
会話が成り立たないシーンの連鎖である。
観ていて、いらいらしてくる。
娘を捨てて出奔した母(山田五十鈴!)と、捨てられた夫(笠智衆・この一風変わった俳優を初めて観たのはNHK朝ドラたまゆらであった、父はこの俳優さんが好きでなくいやだ、いやだ、と言っていた。)勤勉で真面目一方の。
残されたふたりの娘。姉(原)と妹(有馬)
すごい、と思ったのは、まったく噛み合わない会話をしていて、齟齬の連続、誤解の積み重ねのまま、現実はずんずん進んでいく。
フシギの国ニッポン。
いちいち「え?意味わかりません」
「それどういう意味?」
「わかるように言ってもらっていいですか」
など、言えば浮いてしまう。
たいていはちゃんとした答えは返ってこない。
そんなふうでも物事は流れていく。
それでいいのか?
しかし、この映画「東京暮色」の中で、とうとう妹は酔って線路内に入り込み、
「えっ!?」と画面に向かって思わず唸ったが、死んでしまう展開になる。
死にたくない、やりなおしたい、と言うこの女性を監督は殺してしまうのである。
姉が母の働く五反田の雀荘寿荘(この看板がカッコいい)にきびきびした喪服(和装)で出かけて行って、
「おかあさんのせいであきちゃんが死んだ」
とこともあろうに、ひっそり雀荘のおかみとして日陰に生きている母親を叩くのである。
ただでさえ世間からのバッシングを受けて生きているのだ。
おいおい、母親まで殺す気かよ、と私は思うのである。
実はアホな大学生との間で妊娠し、娼婦相手に手術を請け負っている産婦人科医(蒲田!)で処置し、身も心もずたずたになって酒を飲んで電車にはねられてしまう妹の死の真相にはだれも目を向けない。
男はお咎めなし。
ついでに言っておくと、この産婦人科医は女である。
ヒジョーに醜く描かれている。
白衣の上からふとった尻をポリポリかく、という演技まで女医に要求している。
子どもを捨てて家を出た女=悪。
結ばれない相手との恋で妊娠する女=悪・・「ずべこう」とまで言われる。
妊娠に至らせる男は問題ないが、妊娠させられた女は「性的にだらしない」とされる。
姉だって優等生ではない。
父親の勧めで気のそわない大学教授か翻訳家か、こむずかしい横文字を使う男と結婚し、一女を設けるが、夫のもとを出て父親の家に子どもと居候しているのだ。
この家族のなかで唯一ずけずけ本当のことをしゃべるのはおばさん(沢村貞子)のみであるが、この手広く会社経営する女性は、自分の利害にのみに忠実であって、頼りにはならない。
うーむ、鮮明な画質で観る小津作品の描く1957年のニッポンは、女に厳しいなぁ。
私は私自身の母を思ってつらくなる。
私も、姉ふたりも母のない子として育った。
母にとって最大の問題は、当時女性の置かれた状況である。
もしこれが母系社会だったら、世界のどこかに存在する母系コミュニティーだったら、姉ふたりと私の苦労はまったくちがったものだったろう。
なにより、母はまだ生きていたかもしれない。
「東京暮色」で検索したら以下のブログ発見。
この方は、「後味のわるさ」にへこたらず二度見したというからえらい。
https://blog.goo.ne.jp/gaditana/e/a0e75414b6e398c618aa18ce87343870
手書きの手紙は、ほのぼのうれしい。
文字には、そのひとらしさ、中学から高校となり、アナーキーなひとがらをいつしか「よいこ」にキャラ変えし、それでもそのひとの書く字は、中学生のころの彼女の面影を濃く写している。
ちょっと乱暴で、なりふりかまわずの。
歩き方も、他の生徒とはちがっていて、当時すでによっぽどめずらしい「ちょうちんブルマー」をそのままぶわぶわと膨張したまま着用していたのは彼女だけだった。
みんな苦労してくだらないサージのひだを太ももに織り込んで、縫ったり靴下留で留めたり、なんとか体裁を保つ努力をしていたのに。
ひだをブワブワ揺らしながら白いむき出しの足で、堂々と歩く姿を覚えている。
手紙の内容は、先月91歳で亡くなった教師の訃報を、卒業校からのレターで知って、衝撃を受けた、というもの。
《才色兼備で個性的なひとがらは憧れでした。A女子大を受験のときたいへんお世話になりました》と。
優等生に変貌し、猛勉強してキリスト教系の女子大に進み、結婚、母となり、企業戦士の夫の不在家庭を支え、子供たちの手がはなれると図書館や学校事務などでアルバイト、という多くの同級生がたどる人生を彼女もたどたっていた。
《先生に憧れていた自分が、どんな人生を送ったか、といえばいたって平凡な主婦で、今年の春には初孫が生まれました》とある。
私と彼女は、当時目蒲線の中間地点にあった女子校に通った。
目蒲線というのは目黒と蒲田をむすぶ私鉄で、目黒方向の生徒と蒲田方向の生徒には成績にも家庭環境にもはっきりした落差があった。
父親の職業が、学生名簿に記載される時代である。
親の職業で生徒を堂々と差別する老教師。
「だれだれさんのご家庭のお仕事がお仕事ですから」
などと平気で言った。
この老教師が生徒を見る目は、たとえばどんな職業のひとならこういう目つきが許されるのだろう、と考えるに、警察官ぐらいなものではないか。
そして、厳しいまなざしで生徒を値踏みする老教師の、女学生たちからの人気はすこぶる高かった。
なぜなら、このひとがこの私学の権力構造のトップに居たからだ、と私は思っている。
友人が喪失感におそわれている91歳で亡くなった教師も、私はきらいである。
血の通ってないひと。
自分のことしか考えてないひと、と思っている。
たまたま近所に住んでいたので、通りですれ違うことがあった。
あいかわらずひとを値踏みする冷たい視線、挨拶するとめんどくさそうな顔をされた。
ただ、犬だけは好きで、私の顔から犬に目線を落とすと表情がやわらいだ。
犬を連れていないとき、私が頭を下げても素通りされたのは、私を無視したのではなく、犬がいないと私と認識できなかったからだったのか。
友人と私は、蒲田駅からさらに海岸方面にバスでくだった場所に家があり、道路事情もバスの乗り入れもうまく機能してなかったあのころ、駅前で延々バスを待たなくてはならなかった。
蒲田には良い思い出がないようで、懐かしい蒲田で会わない、と誘うと却下される。
田園調布がお気に入りのようなのだ。