BBC放送のキャスターやリポーターが赤い花のワッペンを胸につけている。
今日は第一次世界大戦が終わった日です、と日本語同時通訳のアナウンサーが米国大統領や、テロ、死刑になりかかったものの釈放された女性に対して抗議デモに集まる男たちの拳、などの合間に言っている。
カナダ人作家アリス・マンローの小説のなかで、私がいちばんすきな「家族にまつわる家具」Family Furnishings という短編の出だしは、この日である。
マンローの父親と父の従姉妹アルフリーダ、そしてマックという犬が、太陽は輝いているが、氷が溶けるほどではないあたたかな日、氷を踏んで遊んでいたら、突然教会の鐘、街の鐘、工場の警笛までもが鳴り始めた。
「世界が喜びではじけ、犬がパレードと勘違いして道路に走って行った」
第一次世界大戦が終わりを告げた日だった。
この短いストーリーのなかに、もう一度この日の景色が登場する。
長年マンローが思い込んでいた、犬と無邪気に遊んでいた父とアルフリーダの子ども時代の話しが、実はふたりとも高校生だった、と父の葬儀に来た見知らぬ女性から教えられるシーンである。
このシーンには凄みがある。
父の葬儀に集まった大勢の人のなかから彼女に近づいてきたこの女性が一体だれなのか、マンローは挨拶をしながら探っている。
母親を早く事故で亡くし、その後父親が再婚、アルフリーダはマンローの祖母に育てられた。
この女性のなかにアルフリーダに似たところをみつけ、きっと異母妹のひとりだろう、と思い、子どものころのあなたと会ったことがあります、と言ってみるのである。
「あら、わたしはそのひとではないわ」
とこの女性は、自分がアルフリーダの隠し子であることをマンローに告げる。
不足のない年齢で亡くなった父親と、父のつないだ故郷の人々との葬儀で一時的に和解の気分が生じていたマンローは、アルフリーダが老人ホームで暮らしている、という話を女性から聞いて、訪ねて行こうかしら、と言うのである。
「うーん、それはどうかしら」と女性。
自分は母からマンローの父の話や、マンロー自身の話しを聞いています、と言う。
この辺りから雲行きが怪しくなって、女性から「好意的な様子や無害な雰囲気」はなくなっている、
「あなたが母からなんと言われていたか知りたくありませんか」
そうらきた、とマンローは思う。
「冷たい、自分で思うほど賢くない人間だ」と言っていた、と聞かされる。
「 私が言ったんじゃないですよ、私はあなたになんの恨みもありませんから」
アルフリーダという女性は、裕福とはいえない農場で育ったマンローの親族の、いわば「はみだしもの」であったが、マンローの父とは気があって、マンローの両親にとっては、たまに町の空気を運んでくる女性として一目置かれていた。
アルフリーダは仕事をしている女性で、ローカルな新聞のコメント欄を担当していた。マンローが優秀な成績を修め、二年間だけの奨学金を得てアルフリーダの暮らす町の大学へ行くことになると、アルフリーダは小さい頃から知っているマンローを食事に誘うが、マンローは無視し続ける。
卒業が決まり、婚約もして新しい世界への足がかりを着実なものにしてから、最後の誘いを受ける気持ちになる。
マンローはアルフリーダが愛人と住む家へ出かけて行く。
豊かでない農場の出身であり、女性でありながら、トップクラスの学業成績で大学へ行き、さらにもっと大きな都市へと移り、実は詩人になることや作家になることを夢見ているマンローは、親族や故郷ひとびとからの裏切り者なのだった。
なぜ、アルフリーダからの食事の誘いを二年間断り続けたのか、私にはわかる。
どういうことになるか見当がついていたのだ。
そして、食卓で予想通りのことが起こる。
マンローが作家になろうという夢を語ると、ローカル新聞にコメントを書いているアルフリーダは一蹴する。
「そんな人間を何人も見てきてる。なにひとつまともな仕事ができない連中」と。
そして、前にも書いたことがあるが、テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」という芝居を仲間と観に行った、というマンローに敵意をむき出しにして、あんないまわしいもの、と声を荒らげるのだ。
こういう嫌悪は覚えがある。
新しいものを嫌う。
いまや「欲望という名の電車」は芝居の古典である。
世論が変われば変わる、簡単なものなのだが。
嫌悪の度に、驚かされることが私の思春期にもちょくちょくあった。
たとえば「グループ・サウンズ」
長髪でなよなよしたミリタリー・ルックの若い男たちに対する叔父の嫌悪たるや、すごいものだった。
その嫌悪の底に、どこか性的なものが潜んでいたように思う。
男なのに髪がながい、
ミリタリーなのに戦闘的でない、
男なのに女のような格好をする、
という嫌悪は女なのに、という嫌悪とイコールではないか。
その怒りは強烈なものだったが、彼のもろさが露われていた、とも思う。
私はひとと同じことをすることが苦しかったが、同じことをしない、ということはもう挑戦として嫌われた。
嫌悪が向けられた。
短編の終わりを読むたびに鳥肌がたつ。
アルフリーダの家を午後から友だちと会うから、と早めに辞退して、ひとり見知らぬ町を歩くマンロー。
友だちと会うというのは嘘であった。
バスが横切って行くが、乗客は知らないひとたちである。
向こうも自分を知らない、
「なんという恩恵」と書いている。
因習的な生まれ故郷からの開放である。
用もないのにふらふら歩いているものなら、ふらふらしてるのを見た、とか
そういえば、あの日どこどこで見かけたけど、など言われてしまう。
モンゴメリーの描く美しい自然、「赤毛のアン」に傾倒していたマンローが美しい自然を求めて散歩することも叶わない農村部。
「自然に傾倒している」などと言おうものなら、あるいは「詩がすきだ」などと言おうものなら、かわりもの、と見られてしまう。
ドラッグストアに入ってコーヒーを注文すると、煮詰まった薬のような液体が出てくる。
「これこそ私が求めていた飲み物だ」
ドラッグストアの主人が聞いていたラジオから野球中継が聞こえてくる。
「ラジオから群衆のどよめきが、悲しみな満ちた大きな心臓の鼓動のように聞こえてきた。型どおりの波の音、遠い、ほとんど非人間的な賛同と悲嘆。」
まさにこのとき、自分がなにを書きたいのか、書こうとしているのか、マンローは掴んだのだ。
すごいなあ、心臓が悲しみに満ちているなんて!
なぜだろう、球場のさわめきが悲しく、愛おしいのは。
私はマンローの一人称の短編を彼女自身の実話として読んでいるが、実際には違うだろう。
この短編に登場する隠し子の女性の話などいかにも作り話っぽいが、そこにあるリアリズムは確固たるものである。だとしたら、親族にいたのであろう「アルフリーダ」として描かれている女性と、作家となったマンローが、父親の葬儀で明らかになった対立とはなんだろう、と思うのである。