たかだか15分程度なのだが、満員電車に乗ってぎゅうぎゅう詰めにされる。
月に二、三回、朝の通勤ラッシュ時。
乗り込んで、すぐに発車することもあるが、満員のまま待たされることがある。
車内はへんに静かで、アイフォンに余念のないひとびと。
マスクをしたひとも多い。
黙って立っているだけなのに感じのわるいひとも。
へんな鼻息のひと。
前日のアルコールとニンニクのにおいをむっとさせるひと。
と、すみません、とむりやり最後に乗り込んでくる。
気になって、ふと、見ると、背の高い老婦人。
首に白いマフラーをきっちり折り曲げてコートのなかに入れている。
ん?
知ってるひとのようではないが、知っているような気がする。
ちらっと見る顔も、たたずまいもまったく知らないひとなのに。
記憶のなかのセンサーが回転する。
ん?
そのひとは、十年ほどまえ、私が地域で持つ「呼吸と体操の会」に五、六年熱心に通ってきていたひとではないか?
そう思っても、あまりその方と似ているようではない。
そのひとは、私の会に一時期たいへん入れ込んで「呼吸と体操」を始めてそれまで十二年通ったマッサージとようやく縁が切れた、
と感動をこめて語り、開催者であるわたしをやや持ち上げた。
すすみが速く、身体が伸び、やわらかくバランスが整っていった。
五、六年というそれなりの年月、たちふるまい、仕草を見るともなく見ていたわけだ。
きっちり巻いた首のマフラーから、布をたたむ時の几帳面な手つきを思い出す。
ものごとというのは、すいすいとはいかない。
このままいけばいいなあ、と思っていると、まさかのことが起こる。
彼女は、いいところまでいったところで、階段から落ちた、と。
手術しなくてはならないので来られなくなった。
これまでも、小さな事故はあったが、入院手術というのは初めて。
それでも、手術と手術のあいだ、太ももに金属を入れた状態で、やってきてポージングは素晴らしかったが、階段の上り下りができなかった。
会が終わって、てきぱきと帰りの用意をしながら、もう一度金属を取り除く手術をしなくてはならない、と愚痴り、夫が暴力を振るうひとだ、と驚愕の事実を打ち明けて泣いた。
そして、二度と来なくなった。
一度、地域図書館と屋内プールのある施設で、そのひとが入り口のベンチに座っているのを見かけたが、私が振り向くと同時にうつむいた。
帰りがけにもう一度見るといなくなっていた。
ああ、会いたくないのだな、と残念な気持ちだった。
こういう会は、離れてしまえば、まったくの他人になる。
こちらも何がしかの報酬をいただいているわけだから、それでいいわけなのだが、なつかしく挨拶くらいするくらいの関係性持てなかったのは、私のほうにも問題があるかも、と思ったりする。
去年も、15年間通いつづけた方が、呼吸法の途中で具合がわるくなり、来なくなった。
最近はご機嫌もわるかったし、なんかかんか否定的な発言も多く、体調が芳しくないのにむりに出てきていたのだろう、と後でわかった。
電車で会ったひとが、ほんとうに彼女なのか、なにが、彼女と会に来ていたひとの記憶を結びつけているのか、といえば声だ。
すいません、と車内に入って来たときの声。
距離のある、よそよそしい、ひとをはじくような「すいません」。
やっぱりそのひとだ、と確信する。