落し物

臨港バス神名営業所は、京浜第一国道のわきを入ったところにあり、

愛想のよい女性の電話対応にほっとしたときに胸に描いた「営業所」とは大きくかけ離れている。

そこは広いバスの操車場で、運転手さんたちがバスを洗ったり、タバコをふかして休憩したりしている。

操車場奥の営業所は老朽化しているとはいえ建物は自動扉である。

あらかじめ聞いておいた落し物番号を言うと、対応してくれた男性職員が認印が必要だという。

電話で教えてくれればよいのに、とも思うが、なにしろいったんは諦めたサングラスが戻ってきたのだ、うるさいことは言わずにおこう。

 

三ツ池公園からの帰りのバスが臨港バスだったか、市営バスだったかわからない。

二転三転して乗り込んだバスである。

ただ、降りたのが川崎駅西口だ、ということははっきりしていた。

夫が、それは臨港バスしかない、という。

乗ったのは、寺尾中学だろう、乗車時刻は、14時8分か14時23分にちがいない、というところまで調べてくれた。

私のほうは、バスに乗ってむしあつく、メガネをむしりとった記憶がはっきりしてきて、バスのなかで落とした、と確信した。

 

落し物は、各営業所に連絡するようにホームページには書いてある。

実は、当日鶴見営業所に電話したが、川崎で降りるバスはない、市営バスではないか、と、いまから思えば完全に間違ったことを言われて、市営バスだったらあきらめだ、と感じた。

助かった。

失くしたと思ったものが出てくるしあわせ。

 

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お花見

昨年、池上の桜を見に行ったものの、桜はまったく咲いていないし、誘っておいて1時までです、と早めの終了時間を知らせてくる友だちと、

今年の花見の場所を鶴見と決めた。

その友だちとは長いつきあいになるのだが、話しがぽんぽん弾むという間柄ではない。

自然にすいすい話しが続くこともあるにはあるが、とぎれとぎれの話しにやや間のもたない気持ちになることも多い。

それでも、ずいぶん長いつきあいになるこのひとが、だいたいすきである。

 

三ツ池公園に行った。

バスにようやく乗ったものの、降りるべき停留所を乗り越してしまったらしく、

え?ときょろきょろしはじめてから、反対車線に「三ツ池公園→」の看板がみえた。

友だちにそれを言っても、なかなか降りようという決断ができず、もうひと停留所くらい乗り続ける。

 

ようやく三ツ池公園に到着し、池の縁に座って彼女の用意してきてくれたコーヒーを小さな魔法瓶から小さな紙コップに注いでもらって飲み、池をながめて一息つく。

大きな池にやわらかな水面がひろがる。

初夏のような暑い日で、風が強く、まだ散っていない桜の花びらをざざーっと舞い上がらせる。

しばらく公園を歩いて、正面口を探すが、西へ行こうする彼女に対して「正面」といえば東だろう、と思うが、三ツ池公園初心者は再訪の彼女に従うことになる。

途中の看板地図でやはり正面口でないことがわかる。

回れ右をして、元来た道を下っていくとき、不思議な感覚がおこる。

すいっと腰の位置が上がり、景色がべつなものに見える。

山肌に立つ木々が、つよい風に揺れて、こちらめがけて倒れかかってくる。

 

南口から出て、バス停まで急な坂道を登る。

ベビーカーを押す若い父親の背中を見ながら、おっかない。

もし何かの拍子に手を離したら、ベビーはカーもろとも転落するのだ。

母親はへいきで、手ぶらで離れたところを歩いている。

 

バス通りに出て、県立鶴見高校の前のバス停の時刻表を見ると、なんと14時から16時まで空白。

むこうからやってきた学生風のひとに別のバス停をたずね、またそこまで歩くと、乗客が列を作って待っている。

日差しが強いので、マスクとサングラス。

バス通り沿いの家と家のあいだの傾斜のある道の日影に、みなさん一列になってバスを待つ。

 

友だちと別れて、私鉄に乗ってサングラスがないことに気づく。

ものを落としたときのいやあな気持ち。

帰宅してばたばたと眼鏡屋の電話番号を調べ電話したが留守電。

つぶれたかも?

1日強い風と光にさらされて、坂道を歩き回った疲れもあるし、落ち着いてからにしよう、と思う。

 

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いとこ

桜の花が、満開。

今年の桜の花はしろっぽくて、迫力に欠けるように感じる。

ものの味と同じで、こちらの感性がにぶくなっているのかもしれない。

 

2月25日に亡くなったいとこの魂が、まだこの世に漂っているような、

そんなふうに思う。

いとこが、このうすい色の桜の満開の春に、たゆたっている、そんなふうに思う。

 

なぜか偶然出てきた18年前のいとこからのEメールの文章、

叔父が、退職時の健康診断でガンと診断され、あれよあれよという間に亡くなった、そのときの模様がつぶさに記されている。

私は、メール文をコピーしてあったのだ。

そして、こうして彼女が亡くなってからも、メールの文章を繰り返し読むことができ、あの子の声を聞くことができる恩恵。

コピーを発見して、ああ、こんにふうに父親の闘病をしたのだな、と思い、

あれ?年賀状きてないな、

久しぶりに連絡してみようかな、

いやいややめておこう、

親戚付き合いはどうぶんいいや、

と思った数日後、メールに訃報が入った。

 

いとこは、三番目の叔父の長女として誕生し、美しく健康な赤ん坊だったのだ。

まばゆいような血色の、色白で鼻筋がすーっと整った日本的な美少女だった。

二人目の叔父のひとり娘もハーフと間違えられる美形で、舶来の子供服など着せられていた。

正月の全員集合の写真を見ると、父はわたしのことを「落ちるなぁ」と言った。

色がくろく、不器量で、小学校高学年くらいから肥り始めた自分の娘を。

 

ところが、なぜだろう、まばゆい女の子が摂食障害、暴走族との恋、妊娠、出産、子の問題行動、セラピー、離婚、再婚と続く。

そのことが不幸とは思わないが。

父親と同じ病気で52歳の若さで亡くなってしまった。

「早すぎる死」ということばを聞くと、ひとの命に平均なんてないのにおかしい、

と思うのだが、

自分より年下の身内の死に接すると、早すぎる、と思ってしまう。

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日の名残り

カズオ・イシグロノーベル賞を受賞してすぐに買った「忘れられた巨人」。

やっと読み始めたが、なかなか進めない。

「私を離さないで」に感動して二冊読んだが、「日の名残り」は読めずにいた。

ストーリーを知っているのは、映画を観たからだろうか。

きちんと観たわけではないが、顛末は知っている。

 

「私を離さないで」の結末同様、話の展開が結局は喪失で終わることを知っている。

あがいてもあがききれない人生、

時の流れか、運命というものか、

抗いきれないながれのなかで、どうしても最後にひとふんばりするが、やっぱりだめ。

むざむざと、同じながれのなかの運命に戻っていく、残酷なストーリー。

喪失と分離。

 

英国王立劇団・ロイヤル・ナショナル・シアターのワークショップで、即興演劇を作る授業のとき、

たとえば、シェイクスピア

運命的な対立があって、葛藤がある。

そこでいったりきたりするひとの矛盾を描くのが物語であり演劇である、と。

そのときの参加者が手を上げて、源平合戦の話だったと思うが、敵を追い詰めて、追い詰めて、ようやくたどり着いて相手を倒したとき、兜をむしり取ってみると、そこにはういういしい少年の姿があった。

刀を持つ手がゆるんだが、どちらにせよ自分でないだれかに殺されるだろう、と思った将軍は、少年をいっきに殺してしまう。

そんな話を聞いて、場内がしんとした。

 

苦しい結末にじりじりと近づく。

やや長口上の英国執事の一人称を耐えて、クライマックスにたどり着くのだ。

そこがこのひとの上手いところで、残酷な終わりを残酷に感じさせない、厚い着地のスポンジ、さらに深く降下させる地点が用意されてある。

 

よい小説である。

最後の海辺のシーン。

夕暮れの海辺。

見知らぬひとどうしが、一日のおわりに和むひととき。

たまたまベンチで隣り合わせた老人から、人生の本当のよさは、このときから、と聞く。

 

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旅行中の食事 つづき

白木屋をめざし、アイフォンに示される地図を頼りに歩いて行くと、建物の駐車場や、建物と建物のあいだの細い路地などを通ることになり、50分ほどでようやくアラモアナ・センターへ着き、ジャパニーズ・フードコートまでは行きつけるが、どうもそこは旅チャンで見た場所のようではない。

夫だけチャンポンを食べ、私は緑茶(緑茶のティーパックとお湯で、お湯はお代わりできた。)のみ。

アラモアナ・センターをうろうろしたあと、メイシーズを出たあたりから海岸へ降りようとしたところで、偶然旅チャンで放映していたモダンなフード・コートをみつけた。

夫と海辺を散歩する。

スリランカでなじみのある南国の大きな木々をながめながら歩いたが、それが私の唯一の海辺の観光となった。

夕暮れ近い時刻。

ハワイの海辺の、穏やかな海辺で、温かくあつぼったい風に撫でられる。

ひとりカヌーを楽しむ女性、ゆるくサーフィンをする兄と弟、そしてリムジンで到着したウエディングのグループ。

親と親族と友だちに囲まれた幸福そうなカップル。

LOVE and PEACE 平和な夕暮れ。

 

帰りはバス。

バスの中にいた女性ふたり連れのひとりがどうもハワイ在住の口ぶり、

「パンケーキやわらかいのとかためとどっちがいい?」

「やわらかいのかな」

の返事に、じゃあ、と、バスを降り歩きだすふたりのあとを着けた。

たしかな情報とみた。

ふたりが入った店に続いて入って、ふたりの席の隣りに通される。

パンケーキはどれ、とメニューを指差されたもののなかからピスタチオの入ったものを注文。

ところが、やってきたのはパンケーキではない、ケーキである。

やっかいなのは、チップがいる。

ウェイターは、いかにもチップだよ、チップ!

とぐいぐいくる。

ウェィターはともかく、店内がきもちよかったので、都合三回その店へ行った。

二回目に、こんどこそパンケーキ、と思って、前にゆびさされたコーナーからパンケーキを探そうとすると、そこじゃないよ、と夫。

「だって、ここって言われたもん」

「うら日本語だよ」

!ひっくりかえしたら日本語じゃん。

早く言えよぉ。

 

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旅行中の食事

ホノルルのホテルで、むかむかと具合がわるくなり、いやいや困ったことになったぞ、と横になってじっと目をつむっていた初日。

これから4日間・・どうしよう・・

 

やめておく、と云った機内食を、夫が

「ちょっとでもたべれば?」

と眠ろうしていた私を起こし、

「やめとく」

と言っているのに

「ぜんぜんいらない?」

としつこく、結局ひとくち食べてみると案外おいしくて、少したべてしまった。

「フルーツは?」

「いらない」

「フルーツおいしそうだよ」

それもついたべてしまう。

口になかに入れたのは自分だから、夫を責めるわけにはいかないが。

 

そもそも成田から夜のフライトに乗るための総武ラインの中、

駅ナカの弁当を持ち込む夫。

「サラダならいいんじゃない、クニエはサラダ食べれば」

と言われて、つい、そうだよね、サラダくらいなら、とのってしまい、

いろとりどりで美味しそうな惣菜の並ぶショーケース越しに購入する。

サラダは野菜だが、ドレッシングは味がつよくいやな味がのこる。

夫は乗車するやいなや、自分の弁当と、私のサラダを半分平らげる。

機内では、自分用に天丼と、私のシーフードを半分以上。

 

到着した夜は、コンビニでおむすびとトリの唐揚げのミニ弁当にエビサラダを買って食べたのだが、その夜、具合がわるくなる。

そもそも今回の旅、たべものと水に注意するように、と野口整体の先生から言われている。

どうかな、と思った翌朝、意外にも元気が出てまずホテルの近所で、ハワイのポケというものを食べた。

すし飯の上に、シーフードや海藻、野菜を好きなだけのせてくれる。

一人分だけ注文し美味しかったので、ご飯をおかわりしたが、食べられなかった。

観光局のほとんどが日本人である。

若いお姉さんたちの職場の愚痴、恋愛模様などめんどくさそうな日常が聞こえてくるワイキキの通りである。

大家族のおそろいのムームー姿などを眺めながら、交通の便がいまひとつよくわからないのでうろうろしていると、

歩いてもいけるよ、35分くらい、と夫がアイフォンを道しるべにアラモアナセンターへ行ってみようということに。

途中で小雨がぱらついたり、むっと暑くなったり、しょっちゅう天気が変わる。

見知らぬ街を歩くのは、ひさしぶり。

遠く、くぐってきたアルジェやイスタンブール、ヨーロッパの景色が茫洋とわいてくる。

 

旅チャンネルで、目つきのわるーい中年女性のハワイ案内で見たフードコートに行きたいのだが、夫も私もなんという名称だったのか覚えていない。

白木屋の跡地、ということしか思い出せず、白木屋スマートフォン検索してみる。

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おみくじ

ジャパニーズ・フードコートの奥に、おみくじ屋の占いがあり、
「ラブ、ヘルシー、サクセス」と書いてある。
いとこにはそのいずれも、なかったのかもしれない。

愛も、健康も、成功も。
だから死んだのだ。

そんなふうに感じる自分は、どこかおかしい、きっと。

 

末っ子のいとこを呼び出して、1年8ヶ月の闘病の次第を聞いた。

彼女から聞こえてきたのは、おだやかに、夫、母親、いもうとたちに見守られて眠るように息を引き取った姉の最期。

そう、和解があったのだろう。

私と父のあいだにはなかったが。

日本一の緩和ケア病棟に2ヶ月、そこが家族の憩いの場となっていたそうだ。

 

彼女が前の結婚で残したひとり息子が、いまどんな気持ちで母親の死と向き合っているか、とか、

これからたったひとりで息子はどうしていくのか、とか、

そのことはだれも語らないが。

たとえ気にしていたとしてもなにができるのか?

 

あかるく、前向きで元気な末っ子のどこにも、偽りはなく、

こころの丈夫さと、身体の健康さがある、ように見える。

だから、私のバイヤスがゆがんでいる、とことんゆがんでいる、ということなのだろう。

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