原爆資料館

今回は目をふさがずに見るのだ、と決めていた。

 311のとき、保護犬二頭を疎開させるために佐賀の妹のところへ行き、当初は犬をそのまま残して娘と新幹線で東京に戻る予定だったから、原発事故を起こした国の歴史を見ておこう、とヒロシマによる予定だったのだが、福島は水素爆発で留まり、東京は一応「安全」ということになったし、なによりもこの子たちがいない週末の自分を想像したらつらくなってとても置いて帰れなかった。

犬たちが自分の好きにできるのを楽しみにしていた妹の夫はたいへんがっかりした。

このひとは、なるべくがっかりさせまい、と周囲のひとたちが気をつかうところがある。

私たちが帰ったら犬たちを海に連れて行ってやる、ああしてやろう、こうしてやろうと言っていたので、連れて帰ることにした、と言いにくかった。

案の定、すこしごねて、ごねたあと機嫌がわるくなった。

このひとの機嫌がわるくなって迷惑するのは妹なので、申し訳なかった。

でも、連れて帰って来てよかった。

このひとに扱われたらザックはむりだっただろう。

ザックは死ぬまでわたしを探し、わたしがいないと不安定だった。

かれが死んでしまった直後は、わたしがいないとだめな子だから、どうしよう、わたしがいないと、とどこへ行ったらいいのかおろおろ、へんなきもちになった。

死はいっときの別れ。

いっときの休憩。

 

ヒロシマへは行かなくてはならない、とずっと思っていた。

ヒロシマが目を塞ぎたくなるような原爆の被災地だから、そこはしっかり目をひらいて見ておく、そこをふくめた自分の国なのだ、ということを知っておく、そのことは必要と思った。

 

原爆資料館に入ると、街の模型があり、原爆投下される前の平穏な風景の街と、原爆が投下され瞬時に焼き尽くされた街が映し出される仕組みになっている。

一瞬のひかりに照らされて消失する街、ひとびと。

むごたらしい変貌、胃の奥から自分自身の喪失がこみ上げて来る。

ヒロシマの消失が私自身の喪失とからんではあはあ息を整えなくてはならない。

 

遺品の展示。

原爆で亡くなったひとの思い出の品を家族が死ぬまで持っていて、家族が亡くなって資料館に寄贈される。

だから亡くなったひとの生とそのひとを思いながら生きて死んだひとの生とふたつの生。

きもちのこもったもの。

ことばで書かれた簡略なまっすぐな、過剰でない文字がすきっと入って来て、次の展示物、次の遺品とすすむことができる。

凄まじい破壊と殺戮がこの地で起こったのだ。

人為的に。

殺してやろう、破壊してやろう、

ぶっつぶすにふさわしい、と。

消えさるにふさわしい、と投下された原子爆弾

世界史上にない。

 

辺見庸の「けいぶ」と言ったときの驚きと怒りの目。

麻痺を押して唇から発語された「けいぶ」ということば。

吐き出したことばの意味をとらえなおす間、をなぜか思い出した。

あのとき「けいぶ」の対象となったのはわたしたち日本人で、だから瞬時にして日本人を消してしまうことは、世界にとってよいこと、必要なこと、ととらえられていたのだ。

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ヒロシマへ

ヒロシマへ向かう新幹線のなかで、つらつら思っていたのは叔母のことだ。

広島は、叔父一家が一時期転勤していた場所で、40年ほど前にひとりで訪ねたことがあり、小雨のけむる宮島へもでかけ道中鹿と対面してうろたえたりした。

そのとき、叔母は東京からやってきた私を歓迎せず、夜更けてからひどいことを言われた。

叔父は、会社から早く帰ってくると、おぅっという感じで私を出迎えたが、ふたりの間で東京から来る私をどうあつかえばいいか、ごたごたしていたことだろう、と思う。

私はもう面倒みないから、とか泊まるなら一泊だけにしてくれ、とかもういいかげんにして、とかそんなことを叔母は言っていたにちがいない。

冷たい目をしていやなことを言われた。

いとこは不在で、いとこのベッドで寝たが一晩中眠れなかった。

叔母も眠れなかった、と朝言った。

なんだふたりとも眠れなかったのか、と叔父が笑った。

 

オープンリールの巨大なステレオからクラシックを聴く叔父に、

これこれ、これなんの曲?

とジンとくるのに、曲名のわからない曲が偶然流れたので聴いてみると

これはシューベルトの未完成、と叔父が言った。

どうして未完成なの、

と聞くと

それはだれにもわからない、

と叔父が言った。

 

 

去年の夏、神戸のいとこがめずらしくたずねてきて、一緒に15分ほどだったが昔住んでいた東京の社宅に行って見た。二十代で出禁になって以来であり、もう社宅もなにもかも消えて居て、どこが社宅のあった場所かわからなかったが、思わず手を併せた。

えー手を併せるんだ、といとこが言った。

ヒロシマに着くまでは、叔母のこと、あのときの気分を思い出していたが、あのとき起こったことを夫にいうのはやめよう、と思った。

叔母のキャラには仰天していた夫が、私が傷つけられたことを知れば怒るのは分かっている。

でも私が考えていたのは、そういうことではない。

叔母のキャラとか私をノック・アウトさせるための暴言とか、それは表出であって意味ではないから、意味がしりたい、と思うのだ。

 叔母とはとうとう和解することなく、最後の見舞いも拒否され葬式にも呼ばれなかった。

もっとも葬式は夫と娘のふたりだけで行われたのだが。

どうやら和解は私の人生コードにはないらしいのだ。

だが、去年いとこが来て社宅を訪ね、今回ヒロシマを訪ね、叔母のことを思う。

最期までみえっぱりで私を見て、というひとだった。

おしゃれで派手好きで、自分を盛って。

 

ヒロシマに着くと四十年前の思い出はなにもなかった。

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学校システム論

暴力が学校に集中する理由が知りたい。

世界のあちこちで学校を舞台にした事件が起こる、コロンバイン高校、池田小、神戸の事件だってまず校門から始まったのだ。

その理由。

放送大学がふつうにラジオから聴けたころ、ふと耳にしたこの授業がわすれられない。

荒れる中学校で教師がどのようにして子どもたちと過ごしたか、いのちがけの日々。

いじめ、体罰、校則といった問題が客観的に統計を交え、とりあげられているのを集中して聴いた。

 

「学校システム論」は大学院の教科だったので、四大を出ていないと単位がとれない。

単位がとれてもとれなくても関係ないっちゃないんだけど、でも取らなかった。

教科書だけでもほしいと思ったが、授業料とあまり変わらないほど高かった。

ふと思ってアマゾンを探したら中古が何冊かあったので、この機会に購入。

 

第3章「大衆化する教育意識」のなかで「ピアノ殺人事件」を取り上げている。

一般家庭のピアノ台数は、世界中で日本が一位だそうである。

日本の特殊ともいうべき住環境を考えると不自然な気がする。

ヤマハという会社の歴史にも触れられている。

音楽教室をピアノ販売の戦略として行ったヤマハ

 

ピアノ殺人事件は1974年のできごとだそうで、私はもっと前のように思っていた。

火事場のばか力で苦労して月賦祓いで買ったピアノを外に運び出した音大生の話と混同していたかも。

「狂気・・ピアノ殺人事件」上前淳一郎著に興味がわいて読んでみた。

この事件の加害者である男性の聴覚。

小学生のころ、隣に住んでいた子どもが吃音で、その子と一緒に遊ぶうちにかれ自身がきつおんになってしまうのだ。

吃音がうつる、ということはまれにあるそうだ。

隣の子どもは長じて吃音が直り、うつされたひとは直らなかった。

 

騒音トラブルに悩み始め、ついに殺人事件に発展するまでの、このひとの孤独な人生に吃音であることは大きく影響していただろう。

被害者の団地での存在。

私はつい、団地のなかで取り巻きを作り、グループ特権を行使してだれかを排除するだれかを思い浮かべる。

そいういパワーに痛めつけられた経験がある。

被害者が私の知っているだれかに似たひとかどうかわからないが、団地にそういうシステムが存在していたことは確かだ。

 

団伊玖磨が「パイプのけむり」のなかで、「キャパシティー」としてこの事件に触れている。

パイプのけむり」はアサヒグラフに連載されたのが単行本になり、続々続々と続いたのを父が持っていた。

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こころの時代

辺見庸という作家を「あたいはわりとすきです」と手紙に書いてきた友だちは、もう死んでいて、相模原の事件を知ることはない。

彼女に推薦されて一冊くらい読もうとして、熱感というか、生ぐささというか、さきを読めなかった。

その作家が生活クラブ生協のむりやり購読させられる「生活と自治」にエッセイを載せていて、おそるおそる読んでみると、いつからか愛国者のようになってしまった死んだ友だちが「すき」といった理由がわからない。

そのなかで自身がマヒのある身体になってしまったらしいことが書かれてあり、欄外に「こころの時代」で近況が流れるとあったので、どうだろう〜と思いながら予約録画してみた。

一時間の番組だが、十五分ごとにやすまないと観続けられない。

でも、最後のチビの黒チワワに不器用に水を飲ませているシーンまでやっと観終わって、あの事件に対してこれまでで一番正しいアプローチのように思う。

なかなか過激である。

死んだ友だちの主張とは真逆のようなのが謎だが。

 

同時に「裸足で逃げる・・沖縄の夜の街の少女たち」というのを読んでいて、すっかり耳になれた沖縄のことばのくせが、聞き取りの文章から沁みてくる。

ここ三週間ばかり、ラジコからラジオ沖縄を聞いているのだ。

ラジオ沖縄だけが、完全に網羅されているようにみえる(きこえる)全国のラジオネットワークからすこしはずれているように思う。

 

こっちのあたまがおかしくなってるのか、と混乱するようなことが平気で起こっている。

都立高校の廊下で、教師が生徒にすさまじい暴力をふるっている動画を、道行くひとに見せて街頭インタビューをし、

「これくらいわたしたちの時代はふつうだったけど、いまはねぇ」と言うおばさんや「どっちもわるいどっちもどっち」など同じ高校生に語らせる夕方のテレビニュース。

教師が生徒を殴りつけ、胸ぐらをつかみ引き倒し、なおかつ執拗に暴行を加える事態は、ふつうではない。

異常である。

それを「ふつう」と言わせ「ニュース」として報道する、どうなってんの?

と怒りがおさまらない。

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成人式の車内

意外に、空いている。

晴れ着姿の子は、駅に向かう途中ひと組みかけただけ。

 

ひと駅立ったが、前のひとが降車して座れた。

となりに座る若い女の子ふたり組。

大きな声でしゃべっている。

なかなか乱暴である。

 

なんだよあれ、Bパックってぜったいやらね。

Cは?

Cはたまにやるかな。

(ふがふが笑う声)

 

研修ってさ、なんだよあれ〜いみなくね、チョーむかつくしよ。

あいつ、なんかかんかいうし。

な、マジキレそう。

 

どうやら美容師のたまごが見習いか。

代官山で降りるか、渋谷まで行くか。

代官山のムードではないかも。

代官山で降りるひとたちのファッションは、黒ないし紺で、靴もおしゃれで、髪型もキマっている。

隣りだから、じろっと見るわけにはいかないが、ミニスカートに、肌の透け感がハンパなデニールの黒ストッキング。

 

あーあー、成人式っていいよな〜成人式にもどりてえ。

(ふがふが笑い)

 

このまま電車乗っていてえ、終点どこ?

和光。

和光ってなにあんの。

居酒屋。

へっ居酒屋?ばかじゃねえの、ひるまっから飲んだってしかたないっしょ。

いいじゃん、ひるまっから酒のむのきもちいい。

ばかじゃねえのお前、あたまおかしいし。

(ふがふが笑い)

 

娘が、友だちと会って帰ってきて、口調ががらっと変わっていることがある。

乱暴な、捨てばちな喋り方になっているので、いやだなぁ、と思う。

そういう口調が、という以上にすぐに感染してしまうことが。

 

その日、帰ってから電車で一緒になった女の子たちの喋り方をマネしてみる。

ナニちゃんのグループと飲みに行って帰ってくると、へんなしゃべりになってるけど、ナニちゃんってこんなふう?

と。

 

いやナニの場合はもっとおんなの甘えが入る。

じゃあ、ナニナニちゃんは?

ナニナニの場合はもっとやわらかい、悪口いうときはスゴイけど、そういうんじゃない。

 

夫が、それは神奈川県の特定の地域のしゃべりだ、と、自分の弟一家の住んでいた相鉄線の地名をいう。

「もしかするとそれうちの姪じゃなかった?」

相鉄から横浜で東急線に乗り換えてきたにちがいない、と。

その喋り方は川崎ではない、蒲田でもない、横浜だ、と。

 

 

ふたりは、渋谷でどっと降りるひとたちに混ざって降りていった。

ほんとうは目でおいかけたいところだったが、鋭い目でにらみ返されそうだからやめておいた。

くさくさした空気で包まれたふたり。

怒りのような。

 

街は、晴れ着に真っ白なふわふわのショールを肩にかけた女性たちや、おしゃれなカップル・・おしゃれなジーンズに黒い革ジャンとか、上等な紺色のコートに、斜めがけのバッグ、平和な成人式の休日なのだ。

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モモ

あれも読みたい、これも読みたい、定期購読している「不登校新聞」をきっちり読んで切り抜きたい、と思っていた正月休み。

とうとう読みきったのは「モモ」だけである。

 

この本は、これまでなんども読もうとして読めなかった児童書である。

一時はブームになっていて、厚いカバーの重い一冊は、図書館でも常に貸出中であり、いろんな教育相談家(?)などがこの本の主人公モモについて、作者のエンデについていろいろ書いていた。

数年前も、読もうとして図書館の蔵書検索をかけたが、とうとうまわってこなかった。書評にでたり、だれかがどこかで引用したりすると、人気が出てなかなか順番がまわってこない。

 

予想通り、なかなか入り込めない。

モモといういわばホームレス少女の住む円形劇場。

親切な下層の人々とのこころの交流。

時間泥棒との対決。

そしてモモの勝利。

 

感動したのは、時の番人の老人につれられてモモが時間の本質へと進んでいき、湧き水のようにきらめく時が誕生する場面、そして、それはひとりひとりのこころのなかにある、というところ。

泣きそうになった。

時は自分のなかにこそあるんだ。

時間泥棒にだまされてはいけない。

ひさしぶりに船木亨教授の「現代哲学への挑戦」をめくってみる。

グリニッヂ天文台の示す十二進法の時間軸が、地球上あまねくすべの地域、どんな辺境な場にあっても天文台の時間に支配されるようになったフシギ。

個別の地域には、その土地土地固有の時間軸があり、そこに暮らすひとと季節をつないでいたはずなのだ。

 

この本が出版された時代より、時間泥棒は巧妙になり、時の刻みは巧妙になっている。「モモ」のなかの時間泥棒たちのようにおまぬけではない。

最後の最後になって仲間割れをしてモモにポイントを奪われてしまうようなナイーブなひとたちではないだろう。

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吐ききれない毒・・偽装

元旦に楽しみにしていた賀状が届き、印刷の隙間のわずかな肉筆からそのひとらしさがのぞいてうれしい。

年賀状は、たのしみ。

 

ここ数年、印字で自分の短歌を送ってくるひと、ずいぶん長い付き合いなのだが。

昨年、子どもが自立して夫婦ふたりになった。

「夫婦つかずつかず、なかよくやっていきます。」

とジョークのつもりか。

ていしゅげんきでるすがいい、というこれはなに。

川柳とかなのか。

ご近所の主婦たちと、そういってるのよ、というのを聞いて、

そういうことを言うのは、すこし上の世代のひとたちの話しだと思っていたわたしはへぇっ?とうなった。

「ふつうそうだよ」

なるほど「ふつう」ね。

「母親役も父親役もすべてわたしがやってきたの、200%力をだしてきた、子供たちのために」

と、怒りで青いような顔をして言ったことがある。

夫は仕事に忙しく、「子育ては君の仕事、いやならお前が外いくか」

と言われた、と。

あのことばは一生忘れない、と。

そんな男となぜ別れないの?と聞くと、

「だって選択肢ないもん」

 自分が母親であることがすきでしかたない、とも言う。

そして、自分の母親以上にすきなひとはいない、とも。

それはきっとしあわせなことなのだろう。

娘から恨まれ、あたんのせいで人生がだめになった、と言われる母親だっている。

子供のせいで人生どん底に陥ったり、ということもままあるのだから、母親であること、娘であることがしあわせ、母が心のよりどころ、といえるひとはしあわせにちがいない。

 

彼女からの今年の賀状。

いつもの短歌のわきに写真館で撮ったダンナとのツーショット。

ぎこちなく、ふだん義姿のふたりがやや距離を持って立っている。

そして、なんと手をつないでいるではないか!

「げーぇ、カンベンしてよ!」と思った。

この感覚がどこからくるものかわからないが。

ぴったりくることばは「欺瞞」

「欺瞞よ、でもそれがおとなってもんじゃないの」などという声がどこからか聞こえてくる。

 

世の中には偽装のファミリーがいて、

二十年ちかく別居して、元夫にはあたらしいパートナーと17歳の子どもがいるのに、断固として離婚しないため子どもの戸籍が宙に浮いている。

そして毎年かかさずに送ってくるのが、もうとっくに破綻したはずの元のファミリー写真とクリスマスカードである。

カードのなかは、あいかわらず四人家族のままなのである。

夫の現妻と子どもを削除して。

これはグロテスクではないのか?

私はあるときから不快さに耐えられず、破り捨てる。

私の自撮り写真アップの賀状を、ちっ!と捨てちゃうひともいるんだろうな(笑)

 

いろいろいな偽装。

ふたりめの子どもがまだ赤ん坊のころ、夫に恋人がいて、そのひとが自殺未遂。

この事件で夫の恋人の存在を認めざるを得なくなった。

彼女は子どもたちをつれて実家に帰った。

そのころの彼女は、夫に対する怒りに燃え、疑い、軽蔑していた。

自分と子どもたちをいっきに転落させた夫と夫の恋人をののしる彼女に、あなたにはなんの落ち度もないの、とひとこと言ったら、彼女の運転してた車が側溝に落ちた。

そのとき、後部座席にいたふたりの子どもの顔。

上の子は、母親の感情を汲んで張りつめた顔をしていた。

下の子は、どこかマヒしたような表情。

上の子に問題が出たが、このひとはここでも問題に取り組まず、問題なのは上の子、と顔を歪ませた。

下の子は、優秀で母親思いなのに、と。

 

あれから、二十年。

夫婦としてふるまっているフシギ。

すべてわるいのは、夫の恋人ということになっている。

あたまのおかしい若い女が、ひとりで騒いだだけ、というような。

 

これは偽装ではないのか?

言葉はなんとでも言えて、写真はどういうようにも撮れて、実体はだれにもみえない、とでも思っているのか。

 

こういうことを「キモチわるい」と思う私が問題なのか。

自分自身が宙に浮いた子であり、あたまのおかしい子であり、家族というシステムから排除された、という部分がずきずきとずくから、

だからなの?

 

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※台所の棚の置物と塩。年末の掃除できれいに磨かれました。