中高一貫校の女子校で、急に来なくなったスズコのことを考えていたら、なぜか小学校時代のチャコちゃんのことが思い出されてきた。
チャコちゃんのあだ名は「ゾウ」
身体が大きく、どっしりしていた。
勉強がよくできて、本をたくさん読んでいた。
卒業後、一度登校するバスのなかで会って、駅まで一緒に行ったが、私がする本の話しにもそっけない返事をするだけで、目も合わせず、めんどくさそうだった。
今から思えば、あのときチャコちゃんが着ていたのはお茶校の制服で、妙なあずき色のベレー帽とベルトがふとり気味の身体に浮いていた。
小学生時代ほど大柄に感じなかったから、成長はゆるやかに止まっていたのかもしれない。
彼女とは小学校が一緒だったが、一緒に卒業できなかった。
チャコちゃんは小六で転校したからなのだった。
クラスの女の子数人で、プレゼントなど持って糀谷の自宅に持っていってお別れ会のようなことをしたりしたが、チャコちゃんは引越さなかった。
チャコちゃんのお母さんはきりっとしたきれいなひとで、色が黒いでぶっとした娘とまったく似ていなかった。
チャコちゃんには上にお兄さんがふたりいて、当時(昭40)大森三中、日比谷、東大というコースを歩んでいた。
祖母が、私には母がなく祖母に育てられていた、あるとき、このひとと話す機会があり、そういう教育ママの教育方針に驚いて、父に話していたのを覚えている。
チャコちゃんの成績も、作文も群を抜いていたから、母親が娘の学習も読書もこまかく管理していたにちがいない。
私はチャコちゃんから「にあんちゃん」を教えられたし、このひとの読書感想文がどこかに載って、担任から読んでみろ、と本人がみんなの前で金賞を取った感想文を読まされたことがある。
目立つことがきらいで、ひとの前に立つこともめったになかったこの小学生は、低い早口で自分の文章を読み、読み終わっるとチャコちゃんと担任のあいだにかすかな沈黙の間が流れた。
教師が沈黙をひきとるように口をひらいた。
この担任は、清水といったが、どこの出身だったのか。
ときどき重い語尾がこもった。
五年生から新たな担任になったのは退職直前の教師で、このひとと保護者の間には衝突があり、チャコちゃんのお母さんは先頭で教師とやり合った。
その報復として、あろうことか教師の矛先が優等生のチャコちゃんに向けられたとき、この母は転校を決めたのだ。
当時、教育委員会などどのように機能していたのかわからないが、関係各課たずねたにちがいない。
「おまえずいぶんおとなしいんだな、母親とちがって」
などと言った。
「母親は威勢がいいじゃないか」
など。
チャコちゃんは大きな身体を椅子にうずめ、顔を伏せた。
引っ越したはずのチャコちゃんに、試しに電話するといつも出るのだった。
引っ越し先の住所も、あたらしい電話番号も教えられなかった。
「もうすぐ越すから電話をしないでほしい」というのも母親に言えと言われて言ったことばだったかもしれない。
歯切れのわるさに、私のほうはなぜ?どうして?をくりかえしたにちがいない。
チャコちゃんと私はカナダを舞台とした少女向け読み物を読み、たびだび登場する「日曜学校」なるものに行ってみたくて、あちこちの教会を探して歩いたことがある。
そのときもチャコちゃんはベレー帽をかぶっていた。
糀谷近くにシオン教会というのがあったが、アンやエミリーの通う日曜学校のイメージとはちがうのでずいぶんがっかりした。
チャコちゃんは自分がよい、と思う教会の日曜学校へ行くようになり、私は行かなかった。
あのとき、教師がまちがっているから転校するのだ、と言うことはできなかったのだろうか。
同級生たちをだまして学校を変わるという方法しかなかったのだろうか。
友だちにほんとうのことを言ってはいけない、と言われて転校した小学6年生の気持ち。
いまなら、その重圧を理解できる。
なぜ、偶然バスのなかで会っても素直に喜び合うことができなきかったのか、も。
チャコちゃんは難関の女子大付属へ合格したのだから、転校がチャコちゃんの未来にとって有益だった、ということもできる。
そのまま母親の方針に従ってぐんぐん競争を勝ち抜き、いまごろ高明な医師とかになっているかもしれない。
あるいはどこかで造反し、まったく違う生き方をいている、かもしれない。
でも、あの小6の事件は残念だった、と思う。
おとなが子どもに嘘をつかせる、そんなことはだめだろう。
ふたりの兄も、大森三中、日比谷、東大という路線を勝ち抜いたのか、勝ち抜いたとしてももはや定年後の人生を生きているはずである。
私にとって大森三中は、勉強のできる小学生の行く受験校の中学だった。
時代が進み、役所の同僚の息子が三中へ行くというので、有名な三中、と言うと、え、という顔をしてから、窓ガラスが一枚もなくて有名なんだよ、と笑った。