この本をなぜ読む気になったのか、みすずの書評で知ったのか、
「本の花束」という生協の注文票に入っているチラシで知ったのか。
図書館にリクエストして届くまでに時間がかかり、また「延長不可」になっているところを見ると人気があるのだろうが、読みにくい。
届いて、やっとページを開くと、原発事故という比類のない事態のなかで、車で避難するとき、置き去りにする犬が車を追いかけてきて、
ごめんね、ごめんね、と謝った、というくだりでもう先に進む気が萎えた。
避難先は、茨城の夫の妹の家だそうである。
犬も一緒に連れて行けなかったのだろうか。
その後犬がどうなったか、書かれていない。
どうしようもない事態だってありうるのに、犬のこととなると過剰反応する自分がいる。
以前、ずっと昔、美容師バラバラ殺害事件というのがあって、こんなことは女性には無理、と言われるような「力仕事」を女性がやってのけた。
犯人は女性だった、とワイドショーが加熱した。
犯人の家には家族は住めなくなり、犬だけが放置されていた、とTVを観た知人が憤慨して、そんなふうに犬を扱うひとは、そもそも、と怒っていたっけ。
思い込みの激しい、怒りん坊。
これまで読んできた原発事故の話しの内容と異なる書き方である、というのも読みづらさの一因だったかもしれない。
これじゃあダメだろ、と気を引き締めて読み始めると、じんとこころにしみた。
被災地で日常を過ごすひとの、福島で住み続けるための測量。
人体測量に抵抗感をもつひとは多く、
恐怖感がある。
原発事故が起こるまでの暮らしと、一瞬にして遠くに切り離されてしまったひとびとの喪失。
居ながらにして、失ってしまった。
目に見えない放射線によって。
福島に暮らすひと、住み続けたいと思い、住み続けることが可能なひと、
つまり暮らしても健康被害がない、とされた地区のひとたち。
これが著者の置かれた状況である。
依然として住むことができない地区がある。
親や子を、伴侶を失ったひとたちがいる。
安東量子というひとは、だれなのか、後付けを読んでもペンネームであることしかわからない。
途中まで読んで、ネット検索をする。
「御用測定者」
「福島の子どもたちを危険にさらしている」
などなどの2ちゃん的書き込み。
え?
そういえば「反原発」の文言はひとこともない。
時間とともにどんどん薄れていくセシウム汚染のことは書かれている。
福島県立大学病院の「好意」による測定については書かれているが、子どもたちの甲状腺ガンには触れてない。
う〜ん、だってみすずから出てるんだし、そんなへんなひとじゃないんじゃない、と思ったりして、
おいおい出版社で判断するんかい、と自分で自分にツッコミをいれる。
確かなのは、このひとが「反原発」のひとたちに不信感を持っている、ということ。
いろんなひとたちが福島にやってきて、だけどほんとうに寄り添ってくれたのは、「国際放射線防護委員会」のジャック・ロシャール氏だけだった、と。
彼はくりかえし福島を訪れ、くりかえし福島のひとたちとの交流を持ったのだ、と。
なにがホントでなにが怪しいのか、2ちゃんは無視して、
この本に感動した。
そのことは確かだ。
自分の土地で暮らすということ。