土曜日の夕方、私鉄にからJRに乗り替え、さらに代々木で中央線に乗って外苑の森絵画館前へ向かう。
そういう場に行ってみる気になったのは、あんまりだ、と思う事柄がかさなったからだ。
そういう場へ行くのは、何年ぶりだろう、と考えると40年?
五本の指を使って数えなおすと、いや50年ぶりだ。
放射能の汚染処理水を海へ放出する、
ジャニ問題、
宗教問題、
破滅の道を米帝国主義(古いか)に追づいしている。
はからずもデヴイ・スカルノという女性性を全面に売ってのぼりつめた成り上がりものをして、
《みっともない、日本はアメリカの犬、しっぽをふって》といわしめたそのことばどおりである。
黒大物亡き後もなにも変わらない。
「結局なにも変わらない」というのは私にとってのキイワードである。
「なにも変わらない」というのは、私の望んだようには変わらない、ということであり、
「なにも変わらない」
など、物理的にもありえない。
万物が宇宙の進化とともに変化しているのだ。
愚かなわたしの愚かなあたまには垣間みえない、ということでしかない。
初めて集会へ行ったのは、10.21国際反戦デーである。
後からわかったことだが、この女性ばかりの団体には実は政治性があったのであるが、なにも知らずに友人の親戚がらみで、のこのこ出かけて行ったのであった。
このとき政治権力という力の存在を体験した。
衝撃であった。
もう今は70なので、あまり怖くない。
この50年間、私はなにをしてきたんだろう?
道すがら思い、思い、
電車のひとたちがいつもと違ってみえる。
一緒に電車に乗ったひとたちが、みんな外苑の森を守る集会へ向かっているような気がする。
間違って千駄ヶ谷で降り、何回か乗車拒否されたのち、国立競技場に乗りつけたお母さんと坊やが降りたタクシーに乗って、信濃町の外苑の森絵画館へ行ってほしい、というと運転者さんは知らない。
住所わかりますか?
いや、それが・・
アイフォンでフェイスブックから探そうとするが、住所というのは出てこないのだ。
「外苑の森絵画館で入力できませんか?」
と聞くと、音声入力してくれる。
「でましたでました」
と、ようやく発車。
「ここの中みたいですよ」
と停車してくれたところに「絵画館」と立札があってありがたい。
集会は、あっけないほど小規模で、あれ、声かけしていたひとたちの姿はだれもいない。
くらーい電子音楽に、うーうーうーとくらい声でマイクに口をつけた灰色の髪の女性が歌っている、
外苑の森に謝ろう、
この集会に来たくてもこれない生活困窮者が、今の日本にたくさんいます。
そのひとたちのためにも、
うんたらかんたら・・。
や・やだなぁ、このひとの哀れっぽい声、立つ瀬のなくなるような迫りかた、
こうなっちゃうんだよなぁ、見たくない現実を突きつけられたから、ということだけでもない。
わざわざ出向いてきたんだから。
森の木々に謝る、のは正しい。
生活困窮者がいるのも正しい。
でも、この暗い音楽をバックに、哀れなメッセージを聞くなんだかいや〜な気持ちになる。
森の木々は、どう思ってるのか?
生活に困窮しているひとたちは実際どう考えているのか?
こういうひといたよなぁ、
オバさんは蒸し暑く思う。
何人かの、活動家の顔、50年前のかれらの顔がばっちり浮かんでくる。
いまや、あのときの状態ではないだろう。
シワやシミ、たるみがどちらかといえばきれいな、ござかしい顔に刻まれていることだろう。
私のあたまのなかにいる彼女たち、彼たちはあのころのまま。
集まっているひとたちは、私前後の世代のひとから、若いひとたち、カメラを抱えたひと、スタッフのわっぺんをつけたひと、だいたい感じのよい、地味なひとから、洗練されたた装いのひとから、いかにも環境派というエコなドレスに帽子のひと、手拭いを首からさげたひと、と一色でない。
一時間ほど話しを聞いていたが帰ることにした。
なにを期待してたんだろう、自分。
期待することに問題があるのかもしれないが。
でも、そうか!
若いひとたちが個人個人でマイクを持っている、そこが違うかもしれない。
50年前と。