トロッコ

芥川龍之介の作品を朗読CDで聴く。

たまたま図書館でみつけ、目も頭も疲れ気味だから聴覚を刺激してやれ、と棚にあった芥川の「河童」「藪の中」と宮沢賢治の「風の又三郎」「なめとこ山のくま」そしてポーの「黒猫」。

これまで手にしたものの読むのに苦労した本たちである。

「河童」はあまりおしろく感じない。

「藪の中」はCDが不具合で同じところがくるくる回る。

朗読は高橋悦史さんで、声が魅惑的である。

高橋悦史といえば、映画「旅の重さ」で主人公役の高橋洋子ちゃんと夫婦になって一緒にリヤカーを押す。

あのラストシーンを見て、わわーんとしびれたようになった。

高橋陽子ちゃんの母親役が岸田今日子さんで、映画を観たあと本でも読んで、本もすきだった。

こんな出会いがいい、と本気で思った。

声もいいわけである。

 

味をしめてCDをもっと借りてこよう、と思ったときはすでにカウンターでのやりとりだけで図書館の中に入れないことになっていた。

棚のはしっこは見えるのだが、並んでいるCDはみえず、CDだけのリストはないわけで、なにが朗読になっているのか探せず、結果芥川龍之介を借りることになった。

 

「トロッコ」は、国語の教科書にあったのではなかったか?

主人公が、トロッコにひきつけられ、おとながいないのをいいことに、仲間と三人でトロッコを押してみる。

車輪がぎりっと鳴ったときにドキっとし、しかし二度目に鳴ったときはもうドキっとしなかった、という箇所について質問された。

「主人公は、なぜ一度目ドキッとしたのに二度目はしなかったの?」

と。

私は答えられなかった。

「トロッコ」を見たことがない。

どんなものかわからない。

なぜ、箱のようなものが線路を走るのか理解できない。

理解できないとそこで止まってしまって、先に行けない。

しかも「トロッコ列車」なるものがあり、ますますトロッコがわからなくなった。

ロッコってなに?

芥川龍之介「トロッコ」は終了していた。

 

聴いてみたら、いやいや、いやいや「トロッコ」すごい作品だ(っていまさらなんだ!国定教科書に載ってるんだぞ!)

短い読み物であるが、ひとと情景にズームが迫ったり、遠のいたりしながら、主人公の心理がこまかく動いていく。

新聞紙に包んだお菓子の件。

主人公は、ある日ふたりの工夫がトロッコを押しているのを見て、

一緒に押していいか、と近づいていって聞いてみる。

やさしく、いいよ、と言われておとなのあいだに入ってトロッコを押すのである。

しばらく行くと茶屋に休憩に入って行ったふたりに置き去りにされる。

茶屋の様子を盗み見ながら、待つ。

やっと出てきた工夫のひとりが、主人公に新聞紙に包んだ菓子をくれるのである。

子どもはぶっきらぼうに包みを受け取ったが、ぶっきらぼうで相手にすまなかった、という感情が湧き、思わず包みの中に入った菓子を頬張る。

そういう落ち着かない行動をした経験があるし、見たこともある。

なにかを打ち消すように、なにかを衝動的に行う、というような。

しかし菓子には新聞紙の石油のにおいがしみついている。

菓子に新聞紙のにおいがついていたことは、工夫の責任ではない。

好意であげたもの=好意が、好意を与えた人間の意志と関わりなく、不良品であった場合、ギフトとして成立しない。

主人公は、とうとう工夫たちに置き去りにされるのだが、まっさきに新聞で包んだ菓子をポイ捨てするのである。

工夫たちは、なぜ子どもが自分らに着いてくるのか理解できなかったろうし、子どもは下る快感だけを待ち望んで、きつい上坂をトロッコを押して歩いたのだ。

それを、上ったところで、工夫は家のひとが心配してるから帰れ、と言うのである。

工夫にとっては、むしろ当たり前のことばだった。

しかし、子どもの気持ちは、裏切られた悲しみだっただろう。

そのときは、なぜ自分が泣いているのか、自分自身もわからず、他人にも説明できなかった子どもが、成人して上京し、そのときのことをふっと思い出す瞬間がある、というくだりで終わる。

 

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