アリス・マンローの「林檎の樹の下で」の出だし、
「街の向こう側にミリアム・マカルピンという名の女が住んでいて、馬を飼っていた。
自分の馬ではない---預かって、繋駕競争をやっている馬主たちのために、調教していたのだ。」
を読むや、がーんと瞑想状態のようになって、遠い記憶のなかから、ひとりの女性の姿がぶわっと浮かんでくる。
私がまだ三歳かに四歳のころ、家の一間を間借りしていた女性である。
昭和31年か32年くらい、おおざっぱにいえば多摩川と呑み川に挟まれた蒲田地区の裕福でない地域に暮らす母が、うちの一間を貸しに出して賃料を取ったらどうだろう、と安直な考えにとびついて実行に移したのだ。
この女のひとはすぐに出ていってしまったし、子どもであった私となんの接点もないのだが。
このひとは、大家の子どもをちやほやするようなひとではなく、小さな子どもと目を合わせることもしない、《わたしは子どもなんてだいきらい》というような女性で、おそらく自分の仕事を持ち、ひとりで間借りをして自立する、あたらしいタイプの女性だったのかもしれない。
スカーフを三角にして頭に巻いていた。
ミリアム・マカルピンと間借り人になんの共通点もないのだが、この出だしを読むと、反射的に遠い昔、父と母と三人で暮らしたあの家にいっとき住んで、なにかが気に入らないと表明して出て行ってしまった女性を思い出すのである。
「林檎の樹の下で」のミリアム・マカルピンは、周到なシナリオのもとに初めに登場し、たんねんなストーリー構成のなかで重要な役割を果たしたのち、出だしの印象そのままの寂しい人生を送ることになる。
おそらく四十枚程度の短編に、ここまで折り込めるかと思うほどの人間たちと時間の体積。
一体、何人のひとが登場するだろう。
主人公、つかの間のボーイフレンド。
主人公の父と母、母はもうかなり病が進んでいた・・。
妹と弟。
ボーイフレンドの両親、姉ふたり、妹ふたり、弟ひとり。
ミリアム、ミリアムの年老いた両親、馬主の男ふたり。
この短編に必要な自転車を置いていった季節労働者。
そのひとりひとりが、たとえば無個性なアニメで髪型だけで分別するのとはちがう、ドラマで個性がかぶる登場人物が出てくるような落ち度はない。
ひとりひとりが、屹立して主張があり、それでいて一番すごいのは、どこにでも居そうなのである。
たとえば、私の暮らしていた蒲田、あの町工場の街でだって、ここに登場する人物のようなクセを持った人間たちがいた、そんなふうな気がしてくるのだ。
そこがすごい。