外出禁止令が出ているパリやロンドンで、禁足となっている友人たちから、平和な世界であればめったに来ないメールが届く。
1988年、アルジェ市で暴動が起こったとき、生まれて初めてカーフュウなるものを経験した。
柵があるわけではないが、アルジェリアで外国人として暮らすことは、一枚おおわれたよそものであった。
日本でも外国人は同様の扱いを受けているのだろう。
窓の外から市街地の方に灰色の煙りが立ち上るのを見た時のぞぉっとした感覚。
そこの後、戦車が出動する事態となった。
ラマダニさんが卵をどこかから手に入れて持ってきてくれた。
何枚も重ねたがさがさの紙に卵を包み、細いひもでくくり、苦労で厚ぼったくなった指にひっかけて持ってきてくれた。
いつもの照れくさそうな顔で、割れないように気を使いながら事務所に持ってきてくれた。
ラマダニさんは会社の運転手で、正規雇用の若いブルイナさんという神経質で文句の多い運転手とは別に、時間外や休日の外出に自前のぼろ車でかけつけてくれる白タクの運転者さんである。
フランス人の奥さんは、ほとんどアルジェリア人のようにみえた。
年頃のお嬢さんと小さな息子がひとりいた。
卵は、奥さんが気を利かせて、ラマダ二さんに持たせたのだった。
スリランカに居たころ、爆弾テロ事件があり、そのときも外出禁止令が発動された。
日本から友だちが来ることになっていたが、大使館から通達が出たので、やめておいた方が良い、と連絡すると、まったく平和な日本では想像がつかないらしく
「大丈夫じゃないの、行けばなんとかなるよ」などと言う。
コロンボの空港は郊外にあり、だれかが日本から来ると迎えに行くしかかない。
当時はバスやタクシーなどは使わない方がよい、ということになっていた。
海外からの到着便は夜遅い時間で、帰宅するのが夜中になっても夫が迎えに行った。
夜道にテロのリスクがないわけではない。
コロンボでは外人用の大きな家に住んでいて、庭にはブランコやシーソーがあり通常のときでも外へ出かけることは少ないが、外出してはならぬ、となると息苦しい。
この息苦しさを、平和な東京にいるひとに説明するのは難しかった。
今ヨーロッパやニューヨークが外出規制されて人気のない様子や、窓から外をながめる姿を見ると、閉塞状態が伝わってくる。
日本がこんなゆるゆるの状況で、じわじわと感染が拡大し、あるところで爆発するという想像は、怖いことだ。
病院内で人工呼吸器を着けた患者、イタリアの棺桶、アメリカの遺体集積所がニュース画面から流れてくる。
外国のメディアは違うもんだ、と思う。
楽観論があると飛び付きたくなる。
悲観的な記事から、日本はあそこまではならない、という内容を探して、そこだけをつかもうとする。
マスクあげる、お金あげるって、それ国の政策といえるのか。