勤めている保育園に二年ばかり通ってきていたおばあさんは、ナカモトさんといった。
早く駅について園に向う私は、遠くから杖をついてゆっくり歩いてくるのナカモトさんが見えると、しばらく待って一緒におしゃべりをしながら園に向かった。
ナカモトさんの話しを聞きながら歩くのがたいてい好きだった。
「いつも」ではなかったのは、こちらが朝からとげとげしい気分でいたことが一度くらいあって、そのときはナカモトさんがやってくるのがわかっても、私は待たずに行ってしまった。
毒っけのまるでない、やさしいひとで、どこから来ているの、と尋ね、
「ずいぶん遠くから来てるのねぇ」
と言ったあと、
「でも子どもたちがあんなに楽しみに待ってるんだものねぇ」
と言ってくれた。
子どもたちは私の活動を楽しみにしていて、ひとりが門をくぐってくる私を見つけると、「きたよー! 」と叫び、きたよー、きたよーと次々に伝えるのだった。
上野の西洋美術館に家族で出かけることにしていたが、
前日の不調でキャンセルしようとするとネット予約はキャンセルができない。
仕方ないカンパだな、と考えていたら当日朝、予想外に調子が戻ったので思い切って出かけた。
ロンドン・ナショナル・ギャラリーからゴッホのひまわりが来ていてるからぜひ観たいと娘が言い、私はここ数年ゴッホを日本で観る機会があっても、15年ほど前にパリのプチ・パレで観たゴッホ展に感動しすぎていて、行く気がしなかった。
でも今回のゴッホは行って良かった。
「ひまわり」の解説も、キャンバスに向かってひまわりを描く赤毛のオランダの変人画家という有り様のゴッホを描いたゴーギャンの絵の写真も。
ナショナル・ギャラリー所蔵の黄色い背景のひまわりを真ん中に7枚のひまわりの絵の写真を並べて解説している。
うち二枚に日本にある(一枚は空襲で消失)というのも驚き。
西洋美術館は、レンブラントがあり、ゴヤがあり、モネがありドガがあり、特上のヨーロッパ空間だった。
私はいつものようにさーっとひとりで観終わって、先に外に出ると、あずま屋根のあるベンチに座って家族を待つ。
密を避けるため、三人がけのベンチを二人がけにするよう真ん中の席に赤いシールが貼ってある。
ひとりのおばあさん、いかにもおばあさんらしい帽子、おばあさんらしい色の上着とズボン姿、が近づいてくる。
片足を引きずっいる彼女と館内でもすれちがっていた。
足をひきずってベンチに来て座りたそうだったので、どうぞどうぞ、マスクしてますから、と赤いシールを無視して腰をずらす。
横には肥った中学生が座っていた。
しゃべりたそうな気配がした。
「上野は久しぶりで」
案の定、話し出す。
「もう一週間も前から準備してたのに、全然わからない、むずかしいわ。
変わっちゃって、噴水があったと思うけど、
ずっと前に会社にいた頃、お花見に来たことがあるんだけど、駅に着いたらなんだかわあわあいっていて、何の音って聞いたら、お花見だよ、なんて。」
「そうですよね、昔のお花見ってそんな風でしたよね。」
と相槌を打つ。
「ここに今日きたのはね、猫の絵がほしかったからなの、近くの店に置いてあるのを見たらなんだか気になっちゃって、どうしても欲しくなって聞いたら、西洋美術館で買ったんだって教えてもらって。売店の人に聞いたら、ないって」
とてもがっかりしたようにおばあさんは言う。
「しょうがない、お店に行ってもう一度聞いてみようかしら、でも確かに西洋美術館で買ったんだよって言ってたと思うけど。目がキラキラして貼り絵みたいな猫で、私は猫が好きなもんだから、遠くからわざわざ来て。なんだか気になって仕方ないの、あなたそういうことない?」
あります、あります
思いきり相槌を打つ。
「西洋美術館で売っていたのなら、外国の作者なんですかね。」
「そうねえ、でも着物の柄みたいな貼り絵なの。もういっぺん聞いてみよう、変に思われるかもしれないけど」
並んで話しているうちから、このひとと別れたあと、引きずるな、とすでに考えている
もうこのひとと二度と会えない、そんな気持ちに襲われて苦しくなる、に違いない。
ナカモトさんのことを思い出すと苦しくなる。
ナカモトさんと言う苗字しか知らないおばあさん。
住所も電話番号も知らないのだから。
それに知っていたって、電話したり手紙を書いたりしたらへんだろう。
そういうことをしたい、ということともちがう。
分離そのものに刺激された不安。
分離してしまって、もう会えない、と言う不安感。
実際に会えるか会えないか、ということではなく。
予想どおり、髪を洗っていると、不安がつのってきて、ぜいぜいする。
足をひきずってやっと出てきたのに、お目当てのものはなく、西洋美術館のおたかいおねえさんに、ありません、とひことで片付けられてしまって悔しそうなおばあさん。
会社勤めしていた時代のお花見の喧騒。
わあわあ、酔っ払いの吐くどよめきと、夜桜の春。
猫好き。
孤独。
「で、そのひとどこからきたの?」
「お花見っていつの話しなの?」
と夫はたたみかけるが、それは聞かなかった。
どこからいらしたんですか?
とは聞かなかった。
だから、ぜいぜい過呼吸になりそうになりながら、ぐっと頭を切替えた。
会えてよかった、きょう、あなたと会えて、美術館のベンチに一緒に腰かけることができ、お喋りができてよかった、むりやり口に出して言ってみた。