四年間つきあったきた子どもたちと別れて、帰り道、スマートフォンで聴く音楽。
シャッフルにして聴きながら、なんともいえない疲労と、わずかばかりの達成感。
「これでいいのだ」あるいは「しかたない」という感情。
私は駅に向かって、思い込みも自己愛も抜け、かれらはかれらなりに生きていくだろう、という事実だけを見て歩いている。
二歳のときから注意していた男の子。
担任からしょっちゅう怒られる。
怒られ続けて萎縮している。
その子は男の子がこわいのだ。
乱暴な兄が前年卒園していた。
その子がチラチラと男の子の顔ばかり見ることが気になった。
三歳になると、園児数も多くなり、新しく担任になった体育会系のひとには前以上に叱られて、横に座らされしょんぼりしていた。
四歳になり、五歳になり、かれの状態はどんどん悪くなり、
どんどん集団に適応できなくなり、落ち着きがなくなった。
最近は、すぐにどこか機関に紹介されて医療に結びつき、薬物治療をしているのだろうと思われた。
独特の足の裏の色。
できていたことができなくなった。
どんどん周辺に追いやられ、男の子たちからも女の子たちからも相手にされず、いつもひとりでいた。
なにかで注意したとき、ものすごい目をして「嘘つき先生!」と言われた。
え?私が嘘つき先生なの?と聞くと。
すこし考えて「みんな」と答えた。
怒りだ。
彼にとっては私は嘘つきで、他の先生もみんな嘘つきなのだった。
一度、かれが女の子と手を繋いでもらえず、どうして?
と聞くと、なんにもしてないのに、と泣いた。
抱きしめると、えんえん涙いっぱいにして私のブラウスはかれの涙で濡れていた。
しかし、その後、そんなふうに私に私に抱かれることもなくなった。
青黒いような顔色で表情もなく、元気もなかった。
思い切って担任に話すと、その子がわるいのだ、と。
五歳の子どもに責任があるかのように言った。
想定できる答えだった。
最後の日、ものすごく悪い子になって、悪いことばを使って強そうな男子たちと一緒にいた。
あいかわらずくろずんだような顔色で表情はますます荒んでいた。
最後に、ピアノの周りに子どもたちを集めて、オリンピックとパラリンピックの絵を見せて、車椅子のひとや目の見えないひとの話しをした。
「困っているひとがいたら声をかけてください」と。
私の話しは空中に浮いている。
それは、担任がどんな反応をするのかわかっていたのと同じ程度にわかっていた。
なにもいわずなにもしない、ということができないから、せめて教育的なメッセージだけでもさせて、というところ。
最後の挨拶が終わると何人かの女子は私のところにハイタッチやハグをもとめ、一人の子は、抱きついていつまでも泣いていた。
私は、かれの名を呼んで、抱きしめることくらいはした。
だいすきだよ、とだけ言った。
かれも私の目を見るには見ていた。
ひとは、適応するために、ことさら悪くふるまったり、ひどいことばを使ったり、強そうにみせたり、しなくてはならない。
それもこれも生きていくためのものだったらしょうがない。
Sisile Aynm Dogan
Chenh Venh
フォーレ レクイエム
ケンとメリー
My Girl
Somebody that I used to know
音楽に力をもらってやっと帰ってきた。