夏休み

日野の現場が夏休みに入るこの時期、めったに会えないひとと会うことにしている。

昨年は、ぎっくり腰で動けず、会えなかったママ友とは二年ぶり、娘が年内に結婚するとのこと。

スリランカでは同級生だった娘同士、生まれた年は同じだが、二月生まれのうちのこより、学年は一年下。

娘に話すと「へぇー」とだけ。

 

役所時代の友人とは、二年半会っていなかった。

もうずっとずっと前から難病を患っている。

状態がよくないと聞いていたが、なかなかやってこない彼女を待っていると向こうから、杖をつき、ものすごく痩せたけわしい顔の女性が歩いてくる。

え?!

と思ったら別人でほっとした。

ほんものの彼女は、いつもと変わらない姿。

杖はついていたが、にこやかな笑顔で登場する。

 

彼女に助けられ、彼女を助けようとするもうひとりの友人が、いろいろと世話を焼く。

もともと世話を焼かれることが好きじゃない彼女。

ひとりで黙々と耐えてきた人生を送ってきたひとである。

そういうひとが病気になると、周りは大変だ。

いや、どんなひとも病気になれば、しかも進行性といわれ、いずれ車椅子、いずれ食事も介護なしではできなくなる、という脅しにさらされる病。

この三十年、病と生きる彼女は、自分のやるべきことを黙々と続け、自己流リハビリをしながら、進行を少しでも遅らせる暮らしをしている。

 

昨年、いよいよ状態がわるくなって、外へ出ることができなくなってしまった時期があった。

バスに乗ってでかける週に一度の稽古事は、この四十年ほど続けているが、稽古仲間が送り迎えしてくれたそうである。

ありがたい仲間がいてよかった。

彼女のことだから、あまりありがたい顔もせず、サポートを受けているのだろう。

もしかしたら、考えてそうしているのかもしれないが、あまり気を使われて、ありがとうとかすみません、とかごめんね、とかたんびたんび言われるような関係だったら長続きはしないのかもしれない。

ひとのサポートを受けながら生きるということは大変なことだ。

 

神なき国では、ひとさまに迷惑をかけない生き方をよし、とし、ひとの世話にならないと生きられないひとを弱者とする。

 

杖を使いながら、よろよろと自分の行く方だけを見てゆっくりゆっくり歩いて行く彼女。

ひさしぶりのランチを終えて、しばらく考えさせられた。

自分の不寛容さと、みみっちさ。

わたしならこうする、わたしならこうしない、はナシにしたい。

 

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 水風呂につかって、きもちよさそうなコケ丸くん

 

 

家のなかが片づいていって、中身が空洞になっていく様子、洗濯ものが軒下に干され、犬の散歩に出かける様子もあり、いつもの日常が続いていても、様子が違うのが、外からでもわかる。

 

先週の月曜日引越しで、二、三日後に残務があって引越し先からやってきた。

引越しの当日も、残務の日もすごい暑さ、ピンポンが鳴って出て行くことすらふうふういう感じの日で、

引越しをし、新しい住居にいろいろ運んでもらうことは業者がするとしても、

その日からその家の暮らしを始めなくてならないYuさんの、どんなときでも笑顔で元気なその表情にもさすがに疲労感がみえた。

あいかわらずの笑顔で、否定的なところがどこにもないようなひと。

そんなことあるわけないが。

ぐっと押し黙って歩いているようなときでも、このひととすれ違うと、あーと両手を握り合ったりして、道端でさわがしく、一瞬の元気をもらってきた。

 

一昨年の秋に、父親の中村さんが亡くなって、そのときもなにごとかあったしんとした空気が家の外からわかったし、もっと以前、7年ほど前におばさんのほうが亡くなったときも、私道挟んだ向かいの家の様子は伝わってきた。

 

そもそも今年26になる娘が2歳のときに越してきていらい、中村家とは近所で唯一親しい付き合いが持てていた。

中村さんが、一回目の発作からリハビリをしていて、ひとに連れられて歩行訓練をする姿に線路沿いの一本道でなんどか行き交って、よろけそうになる身体を支えられて笑ってはいたが、追い越すことに申し訳ないような気持ちになった。

自力で最後まで生活することに、必死でいらしたから、無理しているかんじもあり、なかなか思うように歩けるようにならずジレているのもよくわかった。

リハビリする姿を、私に見られることも、うれしくなかったにちがいない。

一緒にくらしていた次女のYuさんが、日に日にしおれていく姿に、中村さんのご機嫌がよっぽどよくないのだろう、と推測していた。

そんなときに、2回目の発作が起こり、子どもたちは勇気を持って延命処置をしないことを決め、そのまま亡くなった。

彼が、いなくなってしまった地域に、住み続ける気がしなくなった、というとしばらくは私が居るから、と逆にYuさんになぐさめられた。

が、とうとう数ヶ月前、家を処分することになった、と言われ、ショックを受ける私に、だいじょうぶ、だいじょうぶ、とハグしてなぐさめるのはYuさんのほうである。

 

家は、なかにだれもいないと、もう家のようではない。

昔、助けてもらったお礼に贈ったブルーベリーの木も、娘が小さいころ、枝ごといただいていたさくらんぼの木も、毎年箱いっぱいもらってジャムにしていた夏みかんの木も、もう持ち主を失って、ただ倒されるのを待っている。

ガムテープを貼って投函されないように封をした郵便受けの前の、きれいな植え込みの観葉植物だけが、数日前に降った雨で、ぴんと元気になった。

 

週明けから解体がはじまる。

 

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クローデル展

無理矢理、開館時間ジャストに着くように家を出た。

 

今年二度目の神奈川近代文学館

かつて、図書館司書の資格を取るための講習で知り合った、当時まだ大学生だった女の子は、どうしても近代文学館に勤めたくて、夏休み中アルバイトをして自己アピールをしたそうで、努力叶って倍率をくぐり一発合格。

私のほうはせっかく取得した司書資格を活かす前に、図書館を退職し、退職したあとしばらく文通したり、たまに会ったりしていたが、どうもむこうはしぶしぶだったような。

その彼女も、いまごろはもう退職しているだろう。

 

私が文学館に足を踏み入れたのは、一昨年前の宇野千代展のときが初めて、それまで行きたいと思っても、とうとう行かなかったのは、なんとなく彼女のことがあったからかもしれない。

意味不明な心理だが、わたしはそうなのだった。

 

次が今年四月の与謝野晶子、そして今回が三度目のポール・クローデルである。

寒い日曜日であった。

朝九時、アメリカ山公園にはひとけがなく、文学館も閑散としている。

ポール・クローデルの膨大な仕事。

写真も多いし、文字も多いし、

 

入り口に、カミーユが作った弟の胸像があり、ブロンズのひんやりとした輝きの奥に、カミーユの弟に対する愛を感じる。

カミーユが悲しい。

ポールの上に終生姉の悲しみがあったのではなかったか。

 

カミーユ・クローデルの映画。

あの女優さんだれだっけ、ロダン役のあのひと、最近ロシアに亡命したひとの名前・・、夫と頭をひねるが出てこない。

なるべくアイフォンを使わず、脳細胞を駆使してみるが、とうとうイザベル・アジャーニジェラール・ドパルデューも記憶の表面に浮いてこなかった。

そのころ親しかった友人の勧めだったか、イザベル・アジャーニカミーユを演じる映画をそのころのVHSで見た。

最後にカミーユの実際の手紙の文面が流れる。

どこも異常のないようにみえる手紙の末尾に、いきなりロダンが自分の作品を盗んだ、ロダンは悪い奴だ、と読み上げられる、と、

ああこのひとは病んでるんだ、とぞっとした。

でも、わからない、ほんとうのところ、ロダンカミーユの作品を盗み、愛人関係にあり、助手を務めていた女性を、

「ただのあたまのおかしいおんな、事実無根!」

と発信すれば、世間はもちろんそっちを信じただろう。

ME TOO運動のいまでも、なかなか難しいかもしれない。

 

夫のアルジェリア勤務時代、日本はバブルでパリでもどこでも日本人がいっぱいいた。

ひとりで地図を持ってロダン美術館まで行ったとき、大柄な身なりのよいアメリカ人の男から「ジャップ」とつぶやかれた。

かたわらに、同じく身なりのよい大柄な妻がいて、そちらもこわばった顔をしていた。

大柄で身なりの良い、裕福な白人。

 

え?

まさか・・私が日本の教科書で習った平等な世界が、歪む瞬間であった。

そして、私はロダンの作品から漂う男権主義がとてもいやで、ロダン美術館のなかに展示されていたカミーユの作品にほっと息をついたのであった。

 

「象はわすれない」というアガサ・クリスティーのポワロシリーズのなかに、母親が電気ショックや冷水風呂の精神療法(療法って?)によって、精神を病み亡くなった、と医師を冷水風呂に溺れさせて報復するシーンが出てきて、カミーユもこんなことされてたのかもしれない、と酷い気持ちになった。

クリスティーがいつの時代を背景にして書いたものかわからないが。

クリスティーのほうが、カミーユ・クローデルより26歳ほど若いし、長生きしたから33年遅く亡くなっている。

アガサも、カミーユのように母親から愛を受けなかった。

 

ポール・クローデルが、自分の国に帰国して、原爆投下を知ったときの衝撃と、日本への心配が書かれた手紙が、彼の残したたくさんの詩作、戯曲、手紙の展示の最後、出口付近にあり、読みながら、今回の震災と原発事故のあと日本に帰化したドナルド・キーンのことを思った。

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こんなとき、パパがいたらなぁ、という思いがためいきのようにわいてくる。

感情を昂ぶらせ、荒らげ、根にもってじくじくとうらみ、そんないりくんだ親子関係だったが、どん底のときに頼るのは父だった。

 

スリランカ在住のころ、雇われていた日本企業に倒産の噂がたち、自分たち家族が寄って立つところは、実のところその企業であり、

そこが倒れると、事務所も家も、現地スタッフも、家のなかで立ち働いてくれている現地の雇われさんも、みんな失うことになる、という恐怖、

昨日まで「マダム」と呼ばれていた立場がうしなわれ、ひょっとすると逆転するかもしけない。

果たして、倒産した会社がどこまで派遣された社員の面倒を見てくれるのか、怪しいものである。

 

日本に一時帰国し、名古屋から東京デズニー・ランドにあそびにきていたコロンボ時代の友人親子と一緒に父からランチをご馳走してもらったことがあった。

遊びまわるなかよしの娘たちに焼肉をジュージュー焼いてくれて、

「ほら、たべろ、すきなだけたべろ」

と言う父に、

「ねえ、大丈夫かしら、会社が倒産したらどうなるの?」

と、不安をもらすと、うすわらいして

「大丈夫」

と言う。

「どうして?倒れるかもしれないって、言ってるよ」

「大丈夫!」

とうすわらいのまま確信をもって、言う父であった。

 

結局会社はなんとか持ち直して、少なくともいまもって倒産はしていない。

「だからいったろ」

オレの言ったとおりだろ、と生きていれば、父は言っただろう。

 

あとになって、名古屋の友人から、

ほんとうにうらやましい、と言われた。

「あんなふうに、自分の不安をお父さんに言えるなんて」

と。

 

父は、残念ながら関係が最悪で、法事で会ってもろくに口も効かない、というころ倒れ、意識不明のまま亡くなったので、

「昏睡状態の人と対話する」

というアーノルド・ミンデルのプロセス・ワークの方法で、13ヶ月のあいだ対話を繰り返したが、それはもう証明のしようがない。

父とわたしがコミュニケーションできていたのか。

たとえ、わたしに確信があっても。

証明できる範囲では、親子断絶した状態で倒れた、というところまでだ。

 

いまだ憎々しく思い出すこともあるし、ふっとあたたかい思い出に浸ることもあり、感情の対極ははなればなれ、歩み寄ることはない。

 

でも、こんなふうに帰路に立たされたとき、父が生きていたら、頼っていただろうな、と思う。

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ついに六月

いやな季節。

先週末は、アガサ・クリスティーばりの怪事件にテレビに釘付けとなり、いけないいけないと思いつつ、週末をはさむと展開が遅くなるので、金曜日中に犯人が特定できないものか、とじりじりした。

クリスティーものだと、たいてい最も犯人らしくないひとが犯人だから、五十五歳年の離れた妻が犯人だとしたらつまらない。

しかし、アイフォンからなにを聴いているのか、イヤホンを垂らし、長い髪にブランドのロゴの入った大きな紙袋を肩から下げて、報道陣のフラッシュをくぐりぬけるふとい根性の若い女性がいやである。

エムケを読み、コーツを読んで自らの感性に疑問符を投じるわたしも所詮おばさんである。

わかいおんなに容赦ない。

被害者である老人に同情があるわけではない。

ゆいいつ同情するのは、愛犬のイブちゃんである。

犬の可愛がり方も、ずいぶんとだらしない。

イブちゃんの寝そべるテーブルは雑然としていて犬を飼う上で注意しなくてはならないものが置いてある。

 

週明けで、進展があるかと楽しみにしていたら、新幹線内でまたテロのようなことが起こった。

痛ましい。

加害者の父に謝らせているのはありえない。

しばらく加害者の親へのインタビューがない、なにか規制が設けられたのかと思っていたら、またやってる。

 

秋葉原の事件や池田小の事件のことを報道するのはやめてほしい。

しばらくテレビを観ないことにしよう、となんども挫折することを思う。

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ロイヤル・ウェディング

朝、ふとんのなかでへんな頭痛がする。

後頭部の皮膚がひっぱられるような痛み。

初めての感覚に怯えて、家族を呼び、あたまに手を当ててもらう。

 

肩がひどく凝っている。

肩こりが原因かもしれない、と娘がネットでしらべてくれる。

 

そういえば、BBCメーガン・マークルさんとハリー王子のウェディングシーンを長時間観てしまった。

かなりの時間、目をこらして画面にはりついた。

そのせいかもしれない。

そろそろテレビを観るにも老眼鏡が必要になっている。

 

ちょっと恥ずかしい。

 

昔の職場に十歳以上年うえの友人がいた。

彼女は安保闘争の時代の元活動家で、フェミニスト、といえばいえたかもしれない。

「ザ・フェミニスト上野千鶴子小倉千加子によれば、結婚しているおんなはフェミニストとはいえないそうだから、彼女はフェミニストといえるかもしれない。

結婚もしなかったし、子どももいなかった。

なよなよと媚びるおんなに対しては容赦なかった。

 

その彼女が、週末ロイヤル・ウェディングをずっと観ていた、というのを聞いて、絶句したことを思い出す。

そのウェディングとは、ハリー王子の母、ダイアナさんの結婚式である。

私には、英国王室の結婚式を観るなど思いもよらなかった。

私の顔を見て「ミーハーだからさ」はははは、と大口をあけてわらった。

私のおどろいた顔がおかしかったのか、普段おとこと結婚なんてふん、と言っている自分への自虐か。

 

メーガンさんという黒人の血の入っているひととハリー王子の結婚を、英国王室が受け入れた。

ラードで、平民であり、バツイチである彼女の堂々たるふるまい。

一点のくもりもないような彼女を、どこからから狙撃犯がねらっているのではないか、

華麗な純白のウェディング・ドレスが血塗られたものになるのではないか、

画面を観ていてへんに緊張した。

こわくて背中がぞくぞくした。

英国ミステリー、シャーロック・ホームズの見過ぎである。

 

その友人は、ダイアナさんの死を知らずに亡くなった。

私が母となり、オケタニ式母乳育児をしていたころ、十年以上たって病気が再発した。

入院した病院に、赤ん坊を実家にあずけてでかけたのを思い出す。

授乳と授乳のあいだの二時間半しか、私が赤ん坊と離れていられる時間がなかったから、大急ぎで出かけて、大急ぎで戻った。

ロイヤル・ウエディングから、そんなことを思い出す。

 

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ジエーン・フォンダ

2018年5月19日。

この季節、自分はどう生きてきたのか・とブログ振りかえる。

 

2011年の6月のブログより

BSで録画予約しておいた「獲物の分け前」を観る。

三十年ほど前、友人がVHVのビデオから録画してくれて、画像はいまいちであったが、実際に映画を観たのはそのときが初めだった。。

 

中学生のころウォルト・ディズニー映画「クレタの風車」に出演したピーター・マッケナリーという俳優に夢中になった。

ディズニー映画によく出演していた子役ヘイリー・ミルズが大人になって、初のキスシーンの相手役を勤めた(幸運な英国若手俳優)というふれ込みだった。

映画館で買ったパンフレットによれば、彼は英国シェイクスピア劇団のメンバーということであった。

蒲田東口にあった映画館で購入したペラペラのパンフレットには、撮影オフの日に砂浜、クレタ島の海岸にちがいない、に寝そべってなにやら話しているふたりの素顔の写真があった。

めの粗い白黒写真である。

 驚くことにこの写真を今ネットで見ることができる。

この写真を中学生の私は、念入りに大切にながめていたもんだなーと感慨深い。

 ピーター・マッケナリーについて知りうる情報はクレタの風車のパンフレットに載っていた小さな顔写真の下に書いてあった経歴だけである。

 

当時通学に使っていた田園調布駅は、ホームからホームへ渡るために階段の通路を越えなくてはならず、教科書の入った重いカバンをぶらさげて階段を登ったり下りするのはたいへんだった。

その通路に時々映画広告がはってあった。

 ある日、いつものように通路をたらたらと通ると、ピーター・マッケナリーさんらしいひとが裸の女性の前で同じくで座っているポスターがあり、映画の題名は「獲物の分け前」となっている。

通路に立ち止まって、裸のマッケなりーさんのポスターに釘付けになるわけにいかない。

そうしたかったが。

そのときは知らなかったが、裸の女優はジェーン・フォンダであった。

どうしてもその映画が観たい。

早熟で知られるミヨちゃんに、一緒に行ってもらえないか・・と聞いてみたがタイトルに「獲物」とくればエッチなものに決まっているから、成人向き映画に違いない、むり、と言われ泣く泣く断念した。

 

それから数年たって、金沢文庫でひとり暮らししていた頃、新聞のテレビ欄で「獲物の分け前」を発見した。

テレビがあるにはあったが、アンテナがなく白黒の画像が流れたり途切れたりしてよくみえない。

ほとんど見えない画面に釘付けになった。

そしてドシャぶりの雨の茫々と流れる奥に映る映像ピーター・マッケナリーさんを発見したときは心臓が高鳴った。

クレタの風車」以来の再会であった。

 

友人がくれた「獲物の分け前」を、初めて最初から終わりまで見たとき、ピーター・マッケナリーの持つ魅力にあらためて感動した。

中学生の私は「クレタの風車」というお子さま映画に出演していたピーター・マッケナリーの発散する性的魅力を理解していたのだろうか。

「獲物の分け前」という映画「父親の新妻と恋に落ちるひとり息子」という神話的テクストに、この英国俳優の風貌はぴったりと一致する。

もともとシェイクスピア劇団の役者ということだから、目なざしは強く演技に迫力がある。

相手役のジェーン・フォンダはこのとき、すでにアクターズでスタニスラフスキー・メソッドを習得したあとか前か・・わからないがイケイケである。

トランジスタラジオを持ってサンバを踊るシーンや、スケスケのカーテンを裸体に巻き付けてストリッパーのように踊るシーンなどは何回も巻き戻し、くり返し観る。

 

恋愛を三角関係で描くことはドストエフスキーから始まったのだ、と言ったのはイワン・イリイチだが、この映画の父と息子と若い女という構図は決してひとつの軸をまわっていないちぐはぐさが実にうまく描かれている。

三者それぞれのズレを三者のふとした表情や髪をかく微妙な仕草に語らせている。

 若い女は若くはあるが、肉体が老いに向かう年齢に突入しつつあり、二十二歳の美しい男性に溺れる。

二十二歳の若者は父と継母のあいだにもつれこむ苦しさにあえぎながら所詮自分というものも、現実というものも楽観していない。

父親を裏切れない、というしばり以上に現実的な判断、

つまり「ふたりで逃げたってうまくいきっこないさ」という冷めた目が悲しい。

そしてミシェル・ピコリ扮する父親はキョーレツである。

初めて新妻と息子の不倫を疑い、息子のベッドで妻のネックレスを見つけたときの顔、

ふたつ並んだ枕のひつとを取り上げておそるおそる自分の鼻を近づけて、匂いを嗅ぐシーン。

彼はここであらましのすべてを理解する。

そのときのすさまじい目。

戸惑い、怒り、自己憐憫

妻と自分の息子に裏切られて無惨に敗者となった彼は復讐を開始する。

彼がそうしようと思ったらもう、だれにも止められない。

徹底的に冷徹な男をピコリがさらりと演じる。

 

義理の母と息子であったふたりが、性的な関係に陥る瞬間のシーン。

はずみでもつれているうちにそうなる。

我にかえって立ち去ろうとする若者のすそに手をのばし行かせまいとする女。

沈黙が漂う。

そして一線を越える。

肉体が異なる意味を持ってしまう。

「母と息子」が「女と男」になって、嫉妬がうずまくようになり、罪悪感に責め苛まれながら

性的な関係から抜け出ようともがきながら、深くからみとられていく。

そしていよいよ行き詰まってどん詰まりで行き止まりになるまで、三者ともが禁制にひっかかりながら、爪を立てて抗い、あえぎ、苦悶する。

美しい舞台装置と魅力的な背景、

ヒッピー文化やモッズスタイル、

ロックンロール、東洋趣味といったものに華麗な彩られながら悲劇が展開していく。

 

「獲物の分け前」がビデオ販売された当時、高価で変えなかった。

「バディム監督の耽美主義」というキャッチコピーがこの映画の本質をよく表している。

 

映画製作は1966年となっていて、ジェーン・フォンダ反戦活動家になる前であり「ワーク・アウト」という空前絶後のベストセラーを出版する前でもあり、父ヘンリー・フォンダと和解して映画共演する前のことである。

バティム監督とのあいだに生まれた娘はジェーンがなにかに立候補した選挙直前に麻薬でラリっているところを保護されるという事件を起こしている。

ロジェ・バディムとの関係が、周囲の予想を裏切らずにすぐに破綻したあと、

再婚したジェーンが、新しい夫と夫のあいだにできた男の子、バディムとのあいだにできた娘の写真を雑誌で見たことがある。

ジェーン・フォンダは大きな金の輪のピアスをしてすがすがしかったが、娘だけひとり真っ白に顔を塗って道化師の化粧をしていた。

はにかんだように笑っていたが彼女ひとりだけカメラから目をそらしていた。

以来私はこの子のことが気になっていた。

 

 

一方ピーター・マッケナリーは、ウィキペディアによればこちらが知らないだけで英国のテレビドラマなどに出演していたらしい。

このひとはゲイにちがいあるまいと思っていたら、一度目の結婚でできた娘がなんとかマッケナリーといい女優をしている。

すっかり爺さんになったマッケナリーの顔写真とネットでお目にかかった。

大きな目のまぶたが完全にたれて一重になったにこやかな顔。

幸せな一生だったらしい。

 

原題は「La Caree」はらわたという意味のフランス語である。

原作はエミール・ゾラの中編である。

ミシェル・ビコリ以外のふたりは英語圏のひとだからフランス語は母国語でないはずだ。

ジェーン・フォンダは劇中カナダ出身ということになっていて英語で歌うシーンがあるが、ピーター・マッケナリーは一貫してフランス語を喋る。

このあたりの不均衡さもこの映画に不思議な魅力を添えている。

 

 

邦題は「獲物のの分け前」と記されてたが、英語圏では「The Game Over」というタイトルだったらしい。

ポスターの題が「ケームは終った」とか「ゲームの後」とかだったら、ミヨちゃんも付き合ってくれたかもしれない。

 

おませで知られたミヨちゃんは、同級生のなかで一番はやく亡くなった。

 

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