放送大学「国際理解のために」という高橋和夫先生の授業を聞いている。
冒頭に音楽が流れてくる。
昨日はリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」であった。
ゾロアスター教がいかに世界の宗教に影響を与えたか、という授業内容らしいが、いつも偶然ラジオから流れてきて、気になってメモる、というだけの視聴者だ。
ゾロアスターの読みをドイツ語にするとツァラツストラなんだそうだ。
ペルシァ語では、なんとかと読むので、本人が英語やドイツ語読みの自分の名を聞いても、自分のこと言われているとは思わないだろう、と思うのであります、と、おかしくないことを言ったりする。
例によって、よくわからないが、わからないなりに聞いていて面白いので、今朝も聴く気になる。
のっけからスマップの歌声が聞こえてきて、高橋先生、またウケをねらって、とくすり笑い、笑ったあと猛烈に悲しみがこみあげてくる。
一生懸命生きようとして、生きられなかった命もある。
そう思うと、この歌が悲しくて悲しくて仕方ない。
昨年、高校時代の同級生が亡くなった、とSNSで知らせがきた、と娘が言った。
行ったほうがいいかな、と葬儀へ行くかどうか、相談を受けた。
あまり親しくなかったのなら、行かなくてもいいんじゃない、と私は答えたのだ。
しばらくして、娘から、あの・・、と言われ、言いにくそうにしているので、
なに、どうしたの、と聞くと、
黙り込んで顔色がわるくなる。
なによ、と言うと、
お通夜に行きたい、お香典のお金出してくれる、と言う。
いいよ、もちろん、と答えて、娘が高校時代の人たちとあまり親しくしていないし、気が重いのだろうと思っていたが、こちらが思うほど関係が悪くなかったのかも、と少し安心した。
お通夜の会場は、さながら高校時代のクラス会のような有様だったらしく、中には小学校から持ち上がった男の子も居たりして、
「近づいてきて握手された、距離ちかい」
行ってよかった、と言っていた。
後日、亡くなった男の子の親から、もう香典返しはいただいていたのに、小さな箱が送られてきて、私は娘が包みを開けるのも怖い気持ちだった。
中からウェッジ・ウッドのコーヒーカップが出てきたとき、箱にそのままにしておくように、娘に頼んだ。
ピンクの花のついた大ぶりのカップだった。
女の子には女の子用、男の子には男の子用の物を、子を亡くした母親が息子の同級生たちに選んだのだ、と思った。
子どもの死。
亡くなったことしかしらないから、どんな闘病をだったか、どんな最期だったのか、男の子を亡くした、というのは私と共通なのだ。
年末に、カップを箱から取り出して、エンゼルの下に置いた。
苦しみも、悩みもない地で、私の子も、彼女の子も一緒にいるのだ、と手を合せた。
お悔やみの手紙を書こうか、と思ったりもするが、こうしてふたりの子の冥福をだれにも知られずに祈る、それでいいような気もするのだ。