実家の写真店があったのは、第二京浜国道と産業道路のあいだをむすぶ下町とも言い切れない、商店街というほどの規模もない、住宅街ではない、中途半端な地区で、
いまはもう消えた店舗あとに今風のマンションが建ち、周囲から浮き上がっている。
周辺の町工場は変遷をくりかえし、看板だけを残してほとんどが消えている。
うちの店もとっくにたたみ、前のパン屋さんも、食事中におかずが足りないと惣菜を買いに走った食料品店も、電気屋もシャッターを閉じてべつなものになっている。
むかし、父がDPEの窓口に頼んでいた大鳥居の時計屋さんをしらべていたら、急にモデルになった同級生を思い出した。
モデルになった彼女を、JR蒲田駅で見かけたことがある。
髪にスカーフを巻いて、裾のひろがったパンタロンを履いていたモデルっぽい彼女。
・・しかしこの時点で、わたしの記憶は混同していた。
小学校のころの同じクラスの同級生とはべつに、おなじ区内の小学校に有名なモデルがいた。
名前を保倉幸恵といい、一度連合運動会なる区内の小学校何校かで行った運動会で、あれが保倉幸恵だよ、とだれかに言われたのか、あるいは目立つその姿に自然にだれ?と目が止まったのかもしれない。
連合運動会のリレーの選手だった保倉さんの、勝気な走りっぷり、負けたときのふくれっつら。
背が高く、足が長く、目立つ容貌だった。
なぜか、これまで考えつかなかった、そんなむかしの子役モデルをネットでしらべようとは、
調べてみたら、画像を含めて保倉さんのことを書いた記事が出てきた。
画像を見て、私は保倉さんの容姿を思い出し、そこで初めて、ふたりのモデルを混同していたことに気づく。
同級生のほうは名前も覚えていない。
きっとモデルとして大成しなかったかわりに、平凡な人生をおくったのではないだろうか。
保倉さんのような人生ではなく。
保倉さんは22歳で亡くなっている。
自死である。
画像のなかには、何人かの少女モデルと写っているグラビアがあり、そのなかの保倉さんは私が連合運動会でみた勝気な、負けることのきらいな強固な意思を秘め、ほかの少女と異質なものをもっているように感じる。
異質さがなにを表すのか、わからないが。
異質さがなにがしか生きづらさにつながったのか。
すでに生きづらさがあり、表情になにか特別なものを秘めていたのか。
しるべくもないが、保倉さんがいまだに、ひとびとの気持ちのなかにあり、ネットのなかで生きていることに、私はほっとした。
まだ保倉さんを覚えているひとたちがいて、画像やプログで残そうとしていることは救いに思える。