母乳ファシスト

保育園での打ち合わせ、多忙な園長を待つ待合室から向かいの乳児の部屋をガラス越しに眺めている。

最近の保育園は、オープンスペースが多く、園長室も、会議室もガラス部分を広く長く取っていて見通しがよい。

若い保育士が、髪にバンダナを斜めにかぶって生後数ヶ月の赤ん坊を抱いて、哺乳瓶からミルクを飲ましている。

保育士は一体なにを思いながら、赤ん坊の口に哺乳瓶を当てがっているのだろう?

と眺めている。

わからないが、私が自分の子におっぱいを飲ませていたときに、抱いて、目を見て、子どもがおっぱいを飲み終わると、胸がすっとして、子どもは眠り、私は一年以上、乳房を包んでいた三角の木綿の胸当ての前を縛り、一年以上、前ボタンのものしか着れなかったから、前ボタンをしめて、次の授乳に控えた。

そのとき、私が考えていたり、感じていたりすることは、仕事として保育士が預かっている赤ん坊に思うこととは根本的に違うだろう。

そのことは私には大きな落差のように思える。

 

娘がひどい反抗期で、いくらなんでもこれは、もう再び母と娘の関係には戻れないだろう、とどこかで疑っていたころでさえ、私は彼女がものを食べているところを見るのが好きだった。

好きというより、快感というのに近かった。

その時に、思ったのだが、きっと授乳期間、私と娘の関係の始まりの始まり、そこで一致していた繋がりがあるんじゃないか。

娘がおっぱいを飲み、私の張っていた乳房がすっきりするという相互の生理的快感、相互の生理的利害が一致していた、という繋がり。

 

母乳を熱心に推奨し、母乳で子どもを育てた母親になにがしかの賞を与えたのは、ヒットラーである。

私も母乳について、ファシストのような反応をしているのかもしれない。

寝ている子どもに垂直に哺乳瓶を突っ込んだり、子どもがぐずると口封じでミルクを飲ませる親を目にすると、空恐ろしい気がする。

まだその子たちは、思春期にもなっていないから、早く問題を起こして私の言説の正しさを証明してくれや、と意地悪く思ったりするが、そういう子どもたちに限って「よいこ」なのである。

頼りない親を支え、親の親を演じてみせたりする。

そして、そのことでまた愚かな親を良い気にさせて、こんなふうに、私のことを心配してくれたりするよ、息子よありがとう、などとFCに書いてあったりするのである。

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