台風が去って、わがやにやってきたちびちび爆弾ならぬ、りえりえ爆弾が帰った。
りえと私は、九つ違いのいとこで、赤ちゃんのとき、つまり昭和37年当時、週末には親の家を訪れ、孫の成長を見せる、というのが一般的ではなかったか。
祖母と同居の家にちょいちょいやってきて、その頃も台風のように来て、台風のように去って行った。
叔父が車が好きで、イギリス車に乗ってきて、そのへんに停めていた。
駐禁でどうの、という時代ではない、その辺で停めるのが一般的ではなかったか。
帰ったあと、必ず忘れ物があり、台風の威力はなかなかのものだった。
叔母が亡くなり、叔父は認知が怪しくなって、いとこの暮らす関西へと越して行った。
だから、この家族でしっかりしているのは、今やひとりっこのりえのみ。
台風の威力としては充分の堂々たるものである。
もう暑くて暑くて「えぃっ」と思い切らないと外へ出られない日だったが、どうしてもこの機会にりえの家のあった場所に一緒に行っておきたかった。
私はこの家に入り浸っていたが、あるとき出禁になった。
それ以降、叔母は一貫して私を拒絶しつづけた。
その叔母が七十代になったころ、具合が悪くなって、もう無理なようだ、となったときこれまでしてもらってきたことを急に思い出して、懐かしくなり、見舞いに行こう、と勇気を出して電話すると、叔父が対応した。
叔父が電話口の向こうで困ったようにまごまごしているのがわかった。
ちょっと待ってね〜・・・・ちょっと本人に聞いてみるね、
と、旗色のわるい気配を感じてどきどきした。
今でも、そのときの叔父の声のトーンをよく覚えている。
これまでも何度かあったように、姪と連れ合いあいだで困っているのである。
クニエが見舞いに来たいと言っているんだけど、受話器を抑えた叔父のくぐもった声に、はっきり「だめ」という聞き慣れた声が電話の向こうで聞こえた。
とうとう最後まで拒否された、というのが私の側の感覚である。
当然ひとり娘のりえも母親から私へのバッシングを聞いているはずである。
りえが冷たいのは、そのせいだろう、と思ってきた。
叔父のことを尋ねる電話をしても、会話が続かない。
関西を訪ねたときもどこかぎこちなかった。
なんとも間の悪い、いやな気持ちで、二度と電話しない、と決めた。
ところが、メールが来て、何日に上京するので会えませんか、とあった。
意外、わたしと付き合う気なかったんじゃないの?
彼女が、どんな動機でわたしを訪ねる気になったかは別として、五十代になったいとことかつて入り浸り、出禁になった家を訪ね当てると、そこは、すでにマンションが建っていたが、急な坂に面していたその坂は健在であった。
ここだ!ここ、ここ!
いとこも興奮して、ほらここに入り口があって、庭があって、一度クロ(飼い犬)が逃げちやって、と場所を特定できると、私は車の中から思わず手を併せた。
なぜだかわからないが「感謝」とかうすっぺたいテンプレートじゃない。
なにかがじわっと沁みてきた。
過ぎ去った日々、うまくいかない散々な日々、恥ずかしい行いの数々、おとなたちを怒らせて、なにがわるいのよ、と居直ってみせ、でも心の中ではいつも自罰していた、あのころ。
いかに苦しかったか、わたしと付き合う大人たちも大変だったろう、だけどわたしが一番大変だった。
合掌
姪にわたしのお気に入りの帽子をかぶってもらう。
この姪とわたしも血のつながらない、姪と叔母どうしである。
亡くなった叔母とわたしのような関係にならないといいけど、と時々思う。