YouTubeで「外套」を聞く。
「外套」は、むかし薄い文庫本で読んだ。
中学に入ったころロシア文学に傾倒した私に、「お前、外套を読んだか」だったか「読んでみろ」ではなかったと思うが、父が聞いてきた。
父はいくらかロシア語ができた。
「かわいそうだぞ」と笑うような、泣くような少し赤いへんな顔をした。
そう言われて、ほんと、かわいそうだね、と相手に合わせる感想を言うわけはないから、中2娘は「べつに」というような態度ではなかったか。
55年ぶりで読んでみたら(聞いてみたら)
ちょ、ちょっと、かんべんしてよ、というような悲惨にも悲惨に弄ばれる善良な被害者があくまでも、ずる賢いやつらに冗談のようにいたぶられたのち命を取られる話しである。
主人公は、言わずとしれたアカーキー・アカーキエヴィッチである。
父は、アカーキー・アカーキエヴィッチとよく連呼していた。
イミもなく好きなコトバというのが我が家にはあったのだ。
私も、実はロシア人の名前にはつよいほうである。
「三匹の熊」子熊のミシュートカ、母熊のナスターシヤ・ペトローヴナ、父熊のミハイル・イワノヴィッチと名前をうまく発音できる。
ロシアの長編を読む際は、登場人物の書かれた最初のページを繰り返し何回も何回もめくる。
ところが、YouTube朗読の朗読者は、アカーキー・アカーキエヴィッチをアカーキー・アカーキエウィッチとあくまでもウに濁点をつけてくれない。
ウに濁点をつけない代わりに、どうもカ行がやや濁っている。
べつにアナウンサーの朗読ではない。
こちらは無料でありがたく聞いているのだが、
ウィッチというと魔女のようで、ヴィッチといえば忽然とロシアの名の母方の姓になるのだ。
アカーキー・アカーキエヴィッチがわるい奴らに復讐するのは死んだあとである。
アカーキエヴィッチの復讐劇は幽霊になってからのことである。
ゴーリキーは、ロシアだけでなく、ヨーロッパの作家たちにも大きな影響を与えた作家らしい。
革命前のロシアにおいて、虐げらるひとの側に立ち、社会の上層にいる欲にまみれた官僚、その体制もすきっと目に見えるように描いている。
困って訪ねて行った窓口をたらいまわしにされるのも、待っても待っても通されない部屋にやっと通されたところ、問題をはぐらかされたり、アルアル、と21世紀のトーキョーで思う。
ロシアは、ゴーゴリ、トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、プーシキンなど素晴らしい文学を生み出し、そして素晴らしい音楽を生み出した国なのに、
なぜ、と思う。
きらきら煌めくロシア文学や芸術を生み出した作家たちの苦労は報われないのか。
これからなのか?
それともなんにもならない、ということ?
ロシアの大地に眠るかれらの目は、さらに遠く、さらに高いところでひかっているのか。
ただ、わたしにわからないだけで。