ミネドレッド・スピアース

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アメリカの夫婦像


「ミルドレッド・スピアース 幸福の代償」というドラマをつい観てしまう。

 無料のアマゾン・プライム。

 

一週間仕事がなく、やらなければいけないことを終えて、ちょっとどこかへ出かけたい気分。

「明日あいてる?」と気軽に声をかけられる友だちが、いまやひとりもいない。

ひとりで出かけようか、と弥生美術館のサイトを見ると、

「混雑が予想されます。9時から並んで整理券をもらってください。」と書いてある。

あそこまで行って、並ぶのはいやだなぁ、混んでいたらそのへんぶらぶらして帰ってくればいいか、などと考えながら結局行かない。

それで、このメロドラマなのだ。

 ケイト・ウィンズレッド主演で、親友役もすきな女優さん、「ホミサイド」という硬派の刑事ドラマにレギュラーで出ていたひと。

だらだらした山あり谷ありのストーリーを耐えて先に進む。

ついに最終章、再婚相手を長女に寝取られる。

伏線はあったのだ。

娘が10代のころから、まだ母親の恋人だった男性にまとわりつき、この男と過剰に親密な描写がくりかえし出てきた。

ミルドレッドが、ついに夫のベッドで裸の長女を見つける衝撃。

メロドラマがすっ飛ぶ。

裸体を隠そうともしない長女が、みせびらかすようにゆっくりと目の前を横切って鏡の前で、髪を梳かす。

母親を挑発しているのだ。

ミルドレッドが、娘にとびかかって首をしめるシーン。

夫に止められても、ぐいぐい首をしめあげ、ソプラノ歌手である彼女の歌手人生をつぶす。

もとはといえば、娘は母親の意向で音楽を始めたのだ。

与えておいて取り上げる、は母親の常套手段。

薄物を羽織った長女が、グランドピアノの飛び上がり、鍵盤を両手でバンバン鳴らし、ヒイ〜ヒイ〜とへんな声で歌おうとするシーンに圧倒される。

ピークである。

巻き戻して三回観る!

ここに向かっていたのだ。

 

リクエストして、ようやく回ってきたルシア・ベルリンの「掃除婦のための手引書」にも数回「ミルドレッド・スピース」が登場する。

といっても、ケイト・ウィンズレッド演じるドラマ版ミルドレッドではない。

1945年制作のジョーン・クロフォード演じるミルドレッド・スピアースである。

ルシアの母親は、実は女優志望で、ときどき「ミルドレッド」の科白を口にしていた、という。

アルコール中毒で、娘ふたりを育てることができなかった母親である。

ルシア本人もアルコール依存症に苦しみ、医療ケアを受けて寛解する。

ルシアは「ミルドレッド」の映画を三回観たそうだ。

 

アメリカのミソジニー、おんなぎらい。

「日本のミソジニー」を書いたのは上野千鶴子せんせいだが。

興味があるのは、母親の女性性と娘の女性性の対比。

娘役の「蛇のような女」と表現される女性性と、夫が他の女性に走ったことにより、生活のために実業家となる母親の女性性。

二番目の娘を、再婚した男との初めての情事のときに失う、という設定。

不倫の罰として愛する次女を失う。

 

「絵画でみる米国」(?)とかいう画集本を図書館勤務時代に見たことがある。

アメリカのプロテスタントの「夫婦像」の絵。

ここにあるのは男と女ではない、と画集の作者は言う。

愛し合う肉体のふれあいのある男女の絵ではない。

生身の男と女ではない、アメリカのプロテスタントは、生身であることを否定しているのだ、と。

著者はアメリカ人だった、ような気がする。

そう考えると「蛇のような」女性に対する怖れ、妖婦=VAMP とはVAMPIREのことだから、キリスト教文化にとってはヤバいのだ。

深層心理でいうところの、憧憬と畏怖?

 

「ミルドレッド・ピアース」には原作があり、ジョーン・クロフォードの映画版では、原作にはない殺人事件が中心になっているようだ。

原作を読んでみようか、と思うがきっとがっかりするからやめておこう。

「郵便配達人は二度ベルを鳴らす」の原作を読んで、あんなにがっかりしたことはない。

映画ではどうしても最後まで観ることができず、最後がどうなったのか気になって借りてきて読んでみたら、ひどい結末だった。

がまんしないで途中で出てきて正解だった、と思った。

あちこちで、本当にひどい、と言いふらした。

どんでん返しに次ぐどんでん返しで、ついに真実はねじ伏せられ、主人公は無実の死刑となる。

読まないと言ってるんだから、くどくど書くこともないか・・。