調布の現場へ行くために、二子玉川から1時間に2本出ているバスを利用していたが、コロナ換気で窓を開けているので、朝の冷気がビュービュー頭の上に吹き込んできて寒くてしょうがない。
1時間乗るのである。
途中もぞもぞと座席を変えたりしても、どうしたって着いたころには身体が冷え切っている。
こちらのほうが早く着くこともわかった。
このときの若林から宮下まで世田谷線に乗って、宮下から世田谷神社を通って豪徳寺へ行ったルートが役に立った。
何年か、調布の現場へは新宿を通過して行っていたが、塩梅のわるいことが起こったのでルートを変えたのだ。
8時台は、通勤のための利用者でけっこう混んでいる。
帽子をかぶってジーパンを履いた背の高い母親が、ベビーカーの子どもに英語と日本語のチャンポンで話しかける声が聞こえてくる。
ちらちら様子をうかがうと、ベビーカーにうずくまる三歳くらいの女の子は英語がネイティブのようだ。
ふたりでずっとしゃべっている。
つかれた、と子どもがいうと、tired?と母親。
どうしてtiredじゃないでしょ、寝てて、と言ってる。
sleepとか言っている。
運転手の後ろ姿の上に電光掲示板「山下」と出るとやましたはなんのこと、と子どもが聞くと、やまはmauntain 下は underなどと言っている。
英語の歌を歌いながら中途半端に身体をゆする母親は、どうも世田谷線の乗客を意識したパフォーマンスをしているようにみえる。
小さい声ながら、その声の方向は周囲に向かっている。
朝の通勤電車のなかで、ベビーカーを押して英語日本語のちゃんぽんを話す日本人の母親とハーフの子。
子に話しかける母というようではなく、対等なともだちどうしのような会話である。
親と子は対等な関係がよい、と思っているのだ。
私もそうだった。
実は、自分が親としての教育を受けてこなかったからなのだが。
私の親は親として子どもに接するのが不十分だった。
自分の子育てを振り返ると、そのことがよかったどうか疑問である。
海外で育った子の英語をキープしたい、一方でほかの子どもから浮かないために日本語も上達させたい、というジレンマに悩んだ経験があるが、学童期までスリランカのインターナショナル幼稚園で育った子どもは、英語がだいきらいである。
どうしても英語をやりたくない、と地べたに両手をついて抗議した中学生時代。
スリランカで一緒に子育てをした仲間のなかには、英語日本語のチャンポンで子どもを育て、子はTOEICで優秀な得点を得て外資系企業にあっさり就職した。
メイドまかせの子育て、チャンポンの言葉に、あれまずいんじゃないの、と陰口をきいていたのが、そうじゃなかった。
《これでいいのだ》だったのだ。
世田谷線のなかの母子は、裕福そうでもなく、通勤電車の乗客を意識せずにはいられないほど孤独で、それでいてなんとか英語がネイティブであることをアピールしたいのだ。
仕事に向かうひとたちは、おしなべて冷たく、たいていは他人のことはどうだっていい。
まして、いみなくアピールを送ってよこすウザイ他者には手きびしい。