「老人と海」にみる身体性

ロシアのアニメ作家 アレクサンドル・ペドロフの挿絵


老人と海」というヘミングウェィの小説は、中学校に入ったときだったか、高校に入ったときだったかにだれかから英文の本をもらった。

淋しそうな老人が舟のうえから釣り糸を垂れている絵が表紙に描かれていた本で、赤いようなだいだい色のような背景だった。

いつかは読むときがくるだろう、と思っていたが、とうとう読むことはなかった。

 

髪を洗って、洗面器から頭を上げた拍子に首がつってしまい、睡眠時の読書ができなくなって、またまたYouTubeのお世話になっている。

ポリタスやビデオ・ニュースという気分ではなく、なんだったかつまらない内容の朗読を我慢して聴いていたが、そんなことならこの際「老人と海」をやっつけよう、と思ったわけで、

実はヘミングウェィが苦手なのだ。

忘れてしまったが、どこかで「きらい」と思って以来、読んでいない。

ヘミングウェィは、一時期リリアン・ヘルマンと一友だちどうしで、彼女のエッセイのなかにたびたび登場したが、彼は自分の作品に対していっさいのコメントを許さなかった、という。

 

老人と海」は、年老いた漁師がひとりで海に出て、自分の力量を超えた大きな魚を釣ることに成功はしたが、サメの大群に襲われて、釣った魚を失って、浜に帰り、たったひとりの友人である少年に英雄として迎えられる、とまあ、そんな話しである。

このひとにとって「魚」とは何で、自分の「肉体」とは何なのか?

自分以上のものを得るために身体を酷使し、酷使に耐えられない肉体をののしり、肉体から報復される。

魚を追い求めながら、魚をねらうサメとも自身の肉体ともそこにあるのは対立である。

《共存》ではない。

身の丈にあわせた魚を生きるために取り、身の丈にあわせた生活をしながら枯れ木のように死んでいく、というのではない。

あるのは戦いである。

自分以上のものになりたい、自分以上のものになろうとしなければダメだ、と卒倒するまで腕相撲に挑んで腕の力を競う。

魚を放すまいと網でぐるぐる巻きした腕が限界を超えて痛み、痛みすらも麻痺し、それでもなお格闘をやめない、自分(エゴ)。

《Never give up》はうつくしいのか?

 

 

 

満月

犬と一緒にスーパーの出入り口にあるベンチに座っていると、足を引きずりながらスーパーから出てきた女性が隣りに腰掛けた。

たいてい大型犬と座っていると敬遠してだれも座らないのだが、買い物を終えて一息つきたい、という感じのどっしりした女性は静かに私の隣りに腰掛けた。

犬のリードを踏んで足元にフセの格好をさせる。

この犬はいざとなったら、リードを掴む私もベンチごとひっくり返せる力を持っているのだが。

 

「わたしは若い頃から犬に吠えられるたちで」

と話し出す。

「どんな犬でもわたしには吠えるの」

そうですか、と相槌を打つと。

「三件向こうの家も、前を通っただけで中から鳴き声がするの。主人に言うとあの家に犬はいないよ、って、じゃあ行ってみましょう、ってふたりで家の前を通ったら、やっばり中から吠えられた。えー犬が居たんだぁって主人が驚いてた。」

わらっていると夫がスーパーから出てきて、犬がすくっと立ち上がり、私も静かに話す女性に「しつれいします」とベンチを立った。

 

駅のATMで夫の通帳の印字をする。

ロータリー側にあった銀行はみんな消えてしまい駅の建物に主要銀行のATMが並んでいる。

犬を夫に頼んで、列に並ぶ。

月曜日の朝で混んでいる。

私の前にひとりというところで、あれ、忘れ物だ!

と右端のATM機の前でいざ操作しようとしたおじいさんが振り向いた。

カード忘れてるよ、まだそのへんに居ないかな、と外を見るが、一体どんなひとだったか覚えていない。

おじいさんだったような気がする、と私が言うと、いや黒いズボンをはいた女性だ、と確信を持って振り返った左端の機械を使っていた女性。

3台ある機械の真ん中の女性が

「私探してきます」

と操作していた機械から離れて外へ出て行った。

ぼくどうしたらいいかな、と忘れ物ののカードをどうしてよいかわからない左端のおじいさん。

警察行ったほうがいいと思けど、ひとりじゃやだなあ、と言う。

印字中の機械の前で、わたし行きますよ、とおじいさんに言うのだが、夫の通帳は、

「繰越しますか」と文字が出て「繰越」のボタンを押すと、延々と印字している。

いつまでも終わらない。

・・と犬がものすごい声でわんわん吠える声が聞こえてくる。

私の犬である。

印字中のがちゃんがちゃんの音、忘れ物のカードをなんとかしようとうろたえるおじいさん、親切に探しに行った女性、印字が終わったら一緒に警察へ行こうとしている自分。

周囲が困惑する物騒な声で吠えるガードレールに繋がれた犬。

姿がみえない夫。

・と探しに行った女性が戻ってきて、もうみつからない、と言う。

おじいさんが今から警察に一緒に行ってくれる?と頼むと、快くいいですよ、とふたりで落とし物のカードを持って駅前の駐在所へ早足でむかった。

 

私はやっと印字終了、ほっとして外へ出ると夫がちゃっかり犬の横に立っている。

犬を放置した夫にがみがみ怒っていると、周囲からの視線を感じる。

なんだぁこのおばはんうるせぇな〜、

これじゃあダンナもたいへんだろう・・

同情するよ、オレは〜

と言う視線。

気が弱そうにへらへらごめんごめん、隣りのATM空いてたからつい、などと頭を掻くだんなを世間は擁護する。

こういう場面を100回くり返している私に同情なし。

 

なんだかいろいろな散歩だった。

夜になったら満月で、それは美しい月夜であった。

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祖母のジェラシー

日曜日、四谷の大学で午前、午後とセミナーを受ける。

一時間ある昼休みに、外へ出るとけっこう寒い。

主婦の友会館もこじんまりしてしまって、立派に成長しているのは駅前大学と駅前のアトレ。

コートの襟をぎゅっと詰めて歩いていくと左手が土手になっていて、芝生に隠れて階段がある。

土手を見ると登りたくなる。

川の流れに沿って続く景色も、土手に登って見渡せる景色も好き。

土手に登ると、多摩川の土手のように高くもなく、道も狭くて、よい感じである。

市谷方向に歩いていくと、右手に大きな建物が構えている。

官庁の建物、病院?

と思ってながめている。

どうも学校のようである。

老眼鏡をがさごさ取り出して、墨で書かれた立看板を読むと、そこは雙葉学園なのである。

ああ、ここが雙葉か。

永年東京に暮らしながら、どまんなかは縁がない。

ここが雙葉か、というには永年の因縁というほどのものではないが、祖母の屈託が思い出される。

祖母には四谷雙葉だけがホンモノであり、あとの雙葉はニセモノという思い込みがあった。

横浜や田園調布ではダメなのだった。

祖母にとって四谷雙葉のみがあこがれないしジェラシーの的だった。

明治の終わりに生まれた祖母は、「ほとんど大正よ」ということにして明治生まれであることを誇りにしていなかった。

干支がひのえうまであることはもっときらっていた。

 

祖母のいとこであるひとの連れ合いが雙葉の出身であった。

このでっぷり肥った自分本位の女性に、祖母は何をとっても負けていた。

経済の面でも、社会的地位というものがあるとすれば、そんなものはこちらにはなかった。

何度か、このひとの家に連れて行かれたが、へんな緊張感があったのは祖母のへんな緊張が伝わったからかもしれない。

対抗意識をもつほどの近さでもないのに、祖母は指輪、時計をこのひとの前で見せるのを嫌がって自分の腕をたもとに隠すようにした。

自分をみすぼらしい、貧相な存在と思ったのか。

戦前だったら負けを取らなかったのに、戦後はこのような落差が生まれた、ということに失望したのか。

きょうだいや姪たち、女系親族のだれもが祖母を気位の高い、自信家と見ているが、私が見る限り自尊感情(今でいう)の低さと引っ込み思案はなかなかのものである。

その性格は、ひょっとすると戦後没落後のものであったのか。

 

高校のとき、市谷の日仏会館にフラ語を習いに行っていたことがあった。

クラスにひとり四谷雙葉の子がいた。

制服を着ているときは、背の高いきれいな女の子、という感じだったその子が私服となると、まっすぐな長い髪、当時流行のパンタロンと肌にぴったりのセーターを中に入れ、それはカッコよくなった。

私は本腰を入れても間に合わない受験シーズンに突入し、完全に置いてけぼりを喰った格好になっていて、こうなると周囲も余裕がないため私に付き合う友だちはいなくなった。

唯一のフラ語だったが、これはただ通っているだけのことで、内容はまるっきり頭に入っていなかった。

ただ通うことで、なんとか自分にアリバイを作っていた。

最近びっくりしたのは、「煙突」って女性形だったよな、となぜか定冠詞LaとLeの区別が耳に残っていた。

別に煙突の冠詞を知っていたからどうということはないのだが。

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淋しいのは私だけではないらしい。

往復3時間かけて仕事場へ行く。

仕事場に近づくにつれて、なぜか淋しい気分に陥っている。

日が曇ってきたせい?

そんな通勤途中、京王線から多摩モノレールに乗り換える駅コンコースの本屋でこんな本が並んでいる。 

 

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「太陽の帝国」

ビデオ・ニュースの宮台真司センセイの推薦で「太陽の帝国」J.G. バラード著を図書館から借りて読んでみる。

 

戦争というものの実質が日常生活の側からそっくり見えてくる。

主人公は子どもである。

11歳で太平洋戦争が勃発し、14歳までを日本軍の収容所で暮らすことになった上海のフランス租界の上流英国人子弟の話しである。

主人公の子どもの目線が巧みである。

戦争の気配が色濃くなってきたころ、ホテルのバルコニーから日本の砲艦を日々ながめ、カブ・スカウトでならった手旗信号を日本人の兵士に送るのだが、戦争が勃発したとき彼を捉えたのは、自分の誤った手旗信号が日本軍に伝わって戦争が始まった!

というものである。

この少年は、飛行機がなにより好きで、英国、ドイツ、アメリカの飛行機をくまなく観察している。

(てっちゃんたちの緻密で正確な観察眼を見よ!)

 

この英国少年はできることなら日本軍に志願したい、と思っている。

彼が憧れているのは零戦と日本人のパイロットである。

 

日本軍に突如占領された上海阻隔で、混乱のさなか親と生き別れて、いったんは病院に入るが、イギリス人の子どもの存在が病院の存続に不利になったとみるや、放り出されてしまう。

その後、路上や収容所にさまよう少年が、大人の男たちにいたぶられるのは、ウェストールの「海辺の王国」にそっくりである。

日本兵の孤独と、個人が集団を形成しない、という表現はなるほど、「影の獄」に描かれた日本軍の捉え方とは真逆のようであって、実は重っているような気がする。

 

少年と木村二等兵との関係

二等兵は、ジム少年から英語を習っていたのだが、戦局が危うくなってくるとやめてしまった。

 

ジムが収容所を抜け出して草むらに潜んでいるところを二等兵に見つけられる。

二等兵はふところから黒いものを出して投げつける。

榴弾が炸裂する瞬間を覚悟して身を縮めたが、落ちてきたのは亀であった。

木村二等兵が大声でわらった。

それは少年の顔だった。

肺病を病んだ少年の顔。

 

ジム少年は、自分をカミカゼパイロットと同一視し、出陣前に滑走路で行われるわびしい儀式にいつも感動を覚えた。

だぶだぶの戦闘服を着た、自分と年の差のない少年兵の子どものような顔とやわらかな鼻。

天皇陛下万歳」と叫ぶしわがれた声。

自分もかれらと共に難攻不落のパコダを攻撃し、矢のように飛翔する零戦に乗って操縦棹を握るのだ。

少年のようなパイロットとともに沖縄の米航空母艦に突っ込んでいく

 

7月の最終週食糧の配給がなくなった。

日本軍の敷いていた収容所の規律がくずれようとしている。

ジム少年は過酷な統制が敷かれていた収容所生活が懐かしい、もう一度日本軍の規律下に置かれたいと願う。

一生を収容所で暮らしたいとまで思う。

空から落ちてきたアメリカ人パイロットの死。

パラシュートにぐるぐる巻かれた日本人伍長

 

日本兵はますますヒステリックに自暴自棄となり、収容者に興味を失ったようだ。

収容所を力で支配してきた日本兵が、じわじわと追い詰められ、結局は無惨殺されることになる末路が読んでいて苦しい。

 

ロシアが対日戦争に参戦したニュースのあと、フェンスの見張りをする日本兵がいなくなる。

《キャンプは奇妙な真空に包まれていた。》

 

・・・ここまででまだ三分の二、残りページ三分の一、ふ〜ぅ

 

窃盗集団の後について、収容所を逃げたジムは、集団を率いるアメリカ人中尉がすきあらば自分を殺そうとしていることに気づき、ふたたび収容所にもどるのである。

そこで、自分の居た部屋に入ると、彼をいまわしく追い払おうとしていた一家の女主人の使っていたベッドに座ってみる。

ジム少年はどうしてもこの残酷な英国人女性がきらいになれなかった。

《まったく別な光景がみえ、またべつの戦争が生みだされる。》

 

部屋を出て、廊下から裏口に出ると、そこには子どもたちの遊び場だった。石蹴り、ビー玉、ケンカ独楽の跡が地面に残っていた。

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JR 蒲田駅

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私鉄を二本乗り継いでJR蒲田に降り立つと、そこはどこの駅とも違うアナーキー

渋谷とも新宿とも、川崎とも違う。

どこか羽田沖の潮の香りが漂っている。

どろくさい空気である。

 

私が行く仕事場は、私が育った地域にある開発されてしまった京浜第二国道沿いのビルのなかにある。

かつては東京計器とよばれ、両親と父方のいとこたちと一時期一緒に暮らした住まいがあった場所であり、のちにもう少し東に土地を買って家を建てるまでのあいだ暮らした場所。

羽田闘争があったときは、負傷した学生が担ぎ込まれ、またのちに養母が腹違いの弟を出産した蒲田総合病院が近くにある。

近所に住む友だちが働き始めてすぐに父親と車を共有して、家に駐車スペースがないので病院の駐車場を使い、ゲートが閉まる前に移動させていた。

めんどうなことをするもんだ、と内心思っていた。

 

実家で暮らしていた頃に、駅から歩いた経験は一度もなく、常に混んでいた京浜急行バスに乗って駅まで行く意外考えたこともなかった。

私立中学へ通うバスの運転手が乱暴で、待っていても乗れないようなこともあった。

家に帰って文句を言うと「歩け」と父に言われた。

昔は駅まで歩いていたんだぞ、と。

とんでもないことを言うと思ったものだ。

 

二度のイスラム圏での生活のあと、おんながひとりで外を自由にあるく恩恵に目覚め、以来歩くことがすきになった。

とはいえ、JR蒲田駅から国道沿いのビルまでの道は、殺風景という以上に歩行者を疲れさせる。

香料の会社のあったひろい敷地が大きなピルになっていて、そこのトイレを使うことにしている。

大きくてがらんとしている。

 

環八通り沿いを歩いて、京浜急行開かずの踏切渋滞解消のため高架線路にしたが、なんともつぎはぎの感じ。

その下の道路を横断するのはいつも怖い。

待機する大型車に迫られて、青信号の時間ぎりぎりに渡り切れるか不安になる。

下手すると中間地帯に置き去りにされるのだ。

広告では駅から15分というこの道が疲れる理由は、

剥き出しの機械の部品のあいだを歩かされいている感覚である。

 

バス通りが拡張され、バスルートが変わり、どこがどこだかわからなくなっている。

東京計器のあったころの空気を嗅ごうとして空を見上げると、秋の青空から強い日差しが差し込んでくる。

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藤田まこと

ある朝、どうにも歯が噛み合わない。

お茶を飲めばなおるだろう、朝ごはんたべれば落ち着くだろう、と思いながら、改善せず、夕方整体に行った。

これでよくなるだろう、と思っていたが、

帰りの私鉄を待っていたら気分がわるくなった。

心配になるが、たった10分くらいのものだ、もし吐きそうになったら降りればいい。

蒸し暑いホームでちょっとくらくらした。

歯茎が痛んで、居ても立ってもいられない。

熱っぽい。

漢方の先生に電話して、夫が出先の帰りに取ってきてくれることになった。

これまで感じたことのない痛みにうろたえる。

 

その夜、どちらかといえばいつもは無頓着系の夫が、痛い痛い痛い、とうめく私の枕元に付いていてくれる。

夫を見て、よっぽどなんだな、とむしろ心配になる。

 

ひさしぶりの漢方を煎じてもらって、その夜二回服用。

痛みはおさまらない、ロキソニンを飲むことを何回か考える。

翌朝は、自分でおかゆを作って梅干しで食べる。

おいしいと感じるので、大丈夫そう、と思う。

その日一日、ソファに横になって「京都殺人案内」を観て過ごした。

あるときから藤田まことが好きになった。

それまでどちらかといえば苦手な俳優さんへの気持ちが急に変わったのは、このひととの継母との経緯をウィキで読んでから。

父親の再婚相手をきらって避けていた藤田まことが、兄の戦死を機に継母を大切にするようになった、という件にじんと来てしまった。

敵対していたひとへの想いを変えること、

拒絶を解いて、受け入れる、と気持ちを決めること、

そういうことができるひとは、えらいと思う。

 

私と継母の関係は悲惨であった。

遺言書をひらいて、私とは親子ではなく関係もない、という文言を実際に目にするまで、ハッピーエンドの夢を捨てていなかった。

自分が可哀想というより、そこまで夢を捨てなかったしぶとさを大したものだ、と思う。

だが、作り物ではない、まま子とまま親の話しには心がひかれる

 

馬ヅラの藤田まとことチビの白木みのるとの「てなもんや三度笠」に感じた安っぽさは、どこからきた感情か。

関西文化圏に対して東京人が持つへんな優越意識?

ふたりの芸人さんの持つうらさびしい雰囲気?

 

大枚はたいて、歌舞伎座へ行き、大物歌舞伎役者松本何某の長時間の芝居をがまんした。

途中休憩で長蛇のトイレに並んでいると、うしろの奥さまたちの会話が耳に入ってくる。

なんといっても、役者の一番は藤田まことよね。うちの子も言うのよ、藤田まことはサイコーだって、必殺仕置人の主水のサイコー

 

四日間、ソファに横になって「京都殺人案内」で痛みを紛らわせたおかげで、噛み合わせがもどってくる

ありがとう!

藤田まことさん。

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