祖母のジェラシー

日曜日、四谷の大学で午前、午後とセミナーを受ける。

一時間ある昼休みに、外へ出るとけっこう寒い。

主婦の友会館もこじんまりしてしまって、立派に成長しているのは駅前大学と駅前のアトレ。

コートの襟をぎゅっと詰めて歩いていくと左手が土手になっていて、芝生に隠れて階段がある。

土手を見ると登りたくなる。

川の流れに沿って続く景色も、土手に登って見渡せる景色も好き。

土手に登ると、多摩川の土手のように高くもなく、道も狭くて、よい感じである。

市谷方向に歩いていくと、右手に大きな建物が構えている。

官庁の建物、病院?

と思ってながめている。

どうも学校のようである。

老眼鏡をがさごさ取り出して、墨で書かれた立看板を読むと、そこは雙葉学園なのである。

ああ、ここが雙葉か。

永年東京に暮らしながら、どまんなかは縁がない。

ここが雙葉か、というには永年の因縁というほどのものではないが、祖母の屈託が思い出される。

祖母には四谷雙葉だけがホンモノであり、あとの雙葉はニセモノという思い込みがあった。

横浜や田園調布ではダメなのだった。

祖母にとって四谷雙葉のみがあこがれないしジェラシーの的だった。

明治の終わりに生まれた祖母は、「ほとんど大正よ」ということにして明治生まれであることを誇りにしていなかった。

干支がひのえうまであることはもっときらっていた。

 

祖母のいとこであるひとの連れ合いが雙葉の出身であった。

このでっぷり肥った自分本位の女性に、祖母は何をとっても負けていた。

経済の面でも、社会的地位というものがあるとすれば、そんなものはこちらにはなかった。

何度か、このひとの家に連れて行かれたが、へんな緊張感があったのは祖母のへんな緊張が伝わったからかもしれない。

対抗意識をもつほどの近さでもないのに、祖母は指輪、時計をこのひとの前で見せるのを嫌がって自分の腕をたもとに隠すようにした。

自分をみすぼらしい、貧相な存在と思ったのか。

戦前だったら負けを取らなかったのに、戦後はこのような落差が生まれた、ということに失望したのか。

きょうだいや姪たち、女系親族のだれもが祖母を気位の高い、自信家と見ているが、私が見る限り自尊感情(今でいう)の低さと引っ込み思案はなかなかのものである。

その性格は、ひょっとすると戦後没落後のものであったのか。

 

高校のとき、市谷の日仏会館にフラ語を習いに行っていたことがあった。

クラスにひとり四谷雙葉の子がいた。

制服を着ているときは、背の高いきれいな女の子、という感じだったその子が私服となると、まっすぐな長い髪、当時流行のパンタロンと肌にぴったりのセーターを中に入れ、それはカッコよくなった。

私は本腰を入れても間に合わない受験シーズンに突入し、完全に置いてけぼりを喰った格好になっていて、こうなると周囲も余裕がないため私に付き合う友だちはいなくなった。

唯一のフラ語だったが、これはただ通っているだけのことで、内容はまるっきり頭に入っていなかった。

ただ通うことで、なんとか自分にアリバイを作っていた。

最近びっくりしたのは、「煙突」って女性形だったよな、となぜか定冠詞LaとLeの区別が耳に残っていた。

別に煙突の冠詞を知っていたからどうということはないのだが。

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